1999.07.09ポスト現代美術 post-contemporary art
■現代美術の終焉
現代美術が日本の美術の主流になりつつある。というよりも、それ以外は認められない風潮すら感じる訳だが、現代美術を賛美する人達は、美術における普遍性を否定することで、その表現に限界を与えてしまった。このことは現代美術という分野の終焉を意味する決定打となるような気がしてならない。コンセプチュアルアート、インスタレーション、パフォーマンス等、80年代のバブリーな流行も、21世紀にはもはや一過性の時代遅れな概念でしか無くなるだろう。
結局、独りよがりなやり方は、真の造形表現たり得なかったのかもしれない。彼らの多くが「額縁絵画」と批判していた平面の仕事が徐々に「復権」してきているのも皮肉な話である。しかしながら、これらの出来事から我々は多くのことを学んだ。これからの美術、言うなれば「ポスト現代美術」、そして美術家は、如何にあるべきであろうか。
■流行にとらわれない
いやしくも「美術」であるからには、一過性の流行にとらわれるべきではない。これは何も、流行を否定しているわけではない。作家が制作したものが多くの人々に支持され、それがその時代性にマッチして流行になることは良い。しかし、作家の制作スタイルや作品そのものが、流行によって左右されるとしたらまずいのである。
もっとも、映画や音楽に芸術作品と娯楽作品があるように(このカテゴライズも少し胡散臭いが)、美術のジャンルにも普遍性を考えない大衆的なものがあっても良いと思う。ただし、間違っても美術館に収蔵されることを望んだり、美術家としてペダンティックな振る舞いなどをすることは避けて欲しいものである。
■デッサン力を否定しない
これも近年の顕著な傾向のひとつだが、技術的に優れていることが悪であるかのようなとらえ方をする美術関係者が多くなった。このような勘違いは、いい加減やめるべきである。「表現技術に優れる」ということが、イコール「優れた作品を制作できる」ということにはならない。しかしながら、優れた表現技術は、幅広い表現活動を約束し、優れた作品の原動力になることは間違いない。勘違いしない方がよいのは、この「優れた表現技術」は機械のように正確なとか、写真のように、とか思われがちだが、そんなことではないということだ。文章の「優れた表現技術」とは何か。言いたいことをもっとも的確な言葉で、もっとも効果的な文章にすることではないだろうか。それは機械には出来ないことである。機械に出来ることは、せいぜい人間の書いた文章のスペルミスをチェックする程度である。
造形芸術の世界における表現技術とは、色彩、形態、構図、構成、といったものが挙げられるが、これらはどれひとつとっても単純に法則化出来るようなものではない。しかし、造形表現とは視覚表現である。視覚表現の諸原理を知ることが、まず必要なことである。その諸原理の中で、最も理解しやすいもののひとつがデッサンである。形態感(構造感)、立体感、質感、といったものを鉛筆、木炭のようなモノクロ素材で、形、明暗、稜線などを手がかりに表すのである。そして、優れたデッサンは、よっぽど写真よりもリアリティがあり、人の目をとらえる力を持っている。
写真やビデオは、新たな表現の材料や用具であるのであって、決してこれまでの美術家のデッサン力の肩代わりをしてくれる機械にはなり得ない。それは、ペンと原稿用紙がワープロやパソコンに代わることがあっても、ワープロやパソコンが魅力的な文章を代わりに書いてくれないのと同じである。
ところで、現代美術の作家たちは、具象絵画の作家を「職人」と言って蔑む傾向があるようだ。丁度、企業の企画や広告のディレクターが、デザイナーのことをそう言うように。確かに、あらゆる意味で、完成度の高い芸術家ほど、職人的な側面があることは確かである。現代美術の作家たちは、いわばお手本をなくした機械みたいなものだ。そのくせ、機械に頼ることを嫌うような発言を(表向きは)するのである。
■インパクト勝負をやめる
派手や奇抜なものがよく個性的と言われる。しかし、誰もが奇抜なものを描いたら、それは個性的でなくなってしまう。ということは、もともとそれは個性ではなく、奇抜という表現技法なのだ。
それから、今まで見たことも聞いたこともない、新しい表現をを生み出したとき、人は必ずとまどい、一度は驚くかも知れない。しかし、新しい表現も、的確でなくては人に伝わらず、評価されなくなってしまう。そう簡単に新しい表現など生み出せない。
奇抜なことや新しいことが偉いことと勘違いしないようにしよう。インパクト勝負の一発芸人ではなく、確かな表現の出来る芸術家を目指したいものである。
最後に、エゴン・シーレの有名な言葉で締めくくろう。
「現代」美術などというものは存在しない。あるのはただ一つ、芸術であり、それはあらゆる時代を超えて永続する。
1999年 7月