Learning from the classics, expressing the contemporaries, and deepening the plastic thinking in the process of drawing. Toshiaki Shibata is the sharp-eyed artist who pursues sophisticated figurative expression through capturing the essence of the figure.

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04.01.03論文『パーヴェル・フィローノフの研究 ― 絵画作品の分析 ―』

03.12.02Article  Study on “Pavel Nikolaevich Filonov “: An Analysis of His Paintings ( Abstract )

03.02.01search for the madeness -造形性の追究-(展示発表要旨)

02.11.01口頭発表『報告「フィローノフへのオマージュ/ サンクト・ペテルブルグにおける 個展とフィローノフ 探訪」(発表要旨)』

02.05.18《Концепция》(コンセプト)

01.01.17re-evolutional experiments

99.07.09ポスト現代美術 post-contemporary art

99.11.04口頭発表『絵画作品における視覚イメージの映像化(発表要旨)』

97.02.16柴田俊明制作ノート(1994年8月-97年2月)

97.02.10内容と形式(1993年-97年2月)

94.01.29論文『パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説(要旨)』

論文『パーヴェル・フィローノフの研究 ― 絵画作品の分析 ―』

パーヴェル・フィローノフの研究 ― 絵画作品の分析 ―

Study on “Pavel Nikolaevich Filonov “: An Analysis of His Paintings

 

柴田 俊明

SHIBATA Toshiaki


I.はじめに

 

 私は2002年5月15日より6月3日迄の間、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ( Санкт-Петербург )市(*1)の画家、オレッグ・コテーリニコフ( Котельников, Олег. )(*2)氏の招きにより、サンクト・ペテルブルグの画廊、ナビキュラ・アルティス(Navicula Artis)(*3)において個展を開催する機会を得た。その際、コテーリニコフ氏及び国立ロシア美術館(図1)の厚意によって、ロシア美術館に収蔵されている、ロシア・アヴァンギャルドの重要な作家のひとりであるパーヴェル・ニコラエヴィチ・フィローノフ( Филонов, Павел Николаевич. 1883-1941)(*4)作品を特別に観覧することが出来た(*5)。

 

(図1)国立ロシア美術館正面

 

 1994年、東京芸術大学大学院において修士論文としてフィローノフの絵画理論研究を行った(*6)。そこでは、主にフィローノフが残したマニフェスト(*7)を分析することを中心に研究を進めた。フィローノフ絵画理論である「分析的芸術」に関して、先行研究のJ. E. ボウルト( Bowlt, John. E. )(*8)によるフィローノフ研究の問題点を解明することから始まり、フィローノフの主要なマニフェスト4篇を分析、彼の「分析的芸術」の主要概念を明らかにすると共に、その哲学的基盤が、「弁証法的唯物論」にあるということを立証した。そして、作品分析では、マニフェストで示された主要概念が実際の作品の中でどのように表れているのかを考察した。

 しかし、図版などの資料からの分析では、読み取れることは不十分であった。例えば、先行研究には、制作に関してふれられている箇所がある。その中には「小さい筆で大きな画面を部分から全体へ描いた」とか、「全体的プランを経ずして画筆は細部から細部へと機械的に移動」し、「極論すれば、結果はなりゆきまかせという」手法である(*9)、など、実技者の視点からは疑問に感じる点も幾つかみられる。確かに日記やマニフェストからこのように判断出来る部分もあるようだ。しかし、これらに対して明確な答えを出すためには、実際の作品を実技研究者の眼で分析する必要があった。  例えば、写真からでは読みとることが出来ない、絵の具の塗り重ねの順番や厚み、下の層から覗く色、マチエールの状態、筆のタッチの大きさなど、これらは実技研究者として大変興味のある部分である訳だが、これらが解れば、フィローノフの制作がどのように行われていたか、例えば、どの程度計画性があるもので、どの程度なりゆきまかせであったか、などは明らかに出来るはずである。

 フィローノフに関する先行研究については、ボウルトやN. ミスレル( Misler, Nicoletta )(*10)らの研究が世界的に知られており、かつてロシア国内でもフィローノフの画集として出版されたものに、ボウルト・ミスレル共著のHero and His Fate(*11)の抜粋版が露訳されて掲載されていた程である(*12)。逆に言えば、本国ソ連・ロシアでのフィローノフ研究が全くと言って良い程されていなかったことが問題なのだが。しかし、今日では、ロシア美術館を中心に、フィローノフ始めロシア・アヴァンギャルドの研究が急速に行われているようだ。特にフィローノフにおける評価は、非常に高まっているといえよう。ロシア美術館の学芸員、オリガ・シヒリョーヴァ( Шихирёва, Олга. )(*13)氏によれば、フィローノフは20世紀ロシア美術の代表的な画家と言えるまでにその名誉回復がなされているようだ。今回、私の個展を開催した画廊、ナビキュラ・アルティスのオーナーの一人、グレッブ・エリショフ( Ершов, Глеб. )(*14)氏もフィローノフ研究者の一人である。

 これに伴い、我が国におけるフィローノフの評価も、変化してきた。残念ながら美術界におけるフィローノフの認知度は相変わらず低いままであるが、文学を中心としたロシア・アヴァンギャルド研究者の近年の研究をみると、マレーヴィチ( Малевич, Казимир Северинович. )(*15)、タトリン( Татлин, Владимир Евграфович. )(*16)に並んで、フィローノフをロシア・アヴァンギャルド美術の代表的作家と位置づける評価も現れてきた(*17)。

 しかし、ボウルトの研究がそうであったように、多くの研究者は美学、美術史家であり、その内容は作家的視点に欠けるものであるという点は変わっていない。フィローノフのマニフェストの分析からと思われる、彼の絵画制作に対する姿勢、コンセプトなどは、ボウルト研究に比べればかなり正しい評価がされてきているように思えた。しかし、作品分析に関しては、どうしてもその内容的側面、テーマ性や社会的な背景などに偏ったものになりがちである。

 本研究では、まずフィローノフと当時のロシア・ソヴィエト美術、社会との関連を考察した上で、フィローノフの「分析主義」について検証する。そして、フィローノフ作品のうち、代表的なものを数点取り上げ、その表現形式、即ち、テクスチャーから読みとれる技術的な側面を中心に、彼の作品の変遷と、表現の独自性、マニフェストに示された絵画理論との結びつきなどを分析する。そして、今回の訪露で得られた、ペテルブルグの美術関係者の貴重な意見を加え、考察してみた。

 

(図2)ロシア・アヴァンギャルド美術の流れ


II. フィローノフとロシア・アヴァンギャルドについて

 

 フィローノフがこれまで美術史上、正当な評価を受けてこなかった理由のうち、最大のものは旧ソ連の「社会主義リアリズム路線の採択(*18)」にみられるような間違った文化政策にあるということは明らかである。フィローノフがなぜ評価されなかったかを知る上でも、まずロシア・アヴァンギャルド芸術の歴史を振り返る必要があるだろう。作品の分析に入る前に、フィローノフと当時のロシア・ソヴィエト美術、及び社会との関わりを考察してみたい。

 ロシア・アヴァンギャルドという区分は、様々な説があるが、大まかに言って、1900年から1930年くらいの時代を指す(図2)。20世紀を迎えたロシアでは、その社会的な不安とリンクした終末論的な思想が芸術界を支配しており、「象徴主義(*19)」といわれる極めて宗教色の濃い精神運動が生まれていた。美術では、19世紀末から『芸術世界(*20)』というグループに代表される唯美派が、移動派(*21)などのリアリズムに対抗する形で生まれた。ミハイル・ヴルーベリ( Врубель, Михаил Александрович. )(*22)などが代表的である。フィローノフは少年時代をこの象徴主義・唯美派の時代に過ごした(末尾の年表を参照)。

 1905年以後、ヨーロッパ近代美術、キュビスムやフォーヴィスム、フトゥリズム(未来主義)などのモダニズムの強い影響を受け、ロシア美術は急速に変化してゆく。ニコライ・レーリヒ( Рерих, Николай Константинович. )(*23)を先駆者として、ラリオーノフ( Ларионов, Михаил Федорович. )(*24)やゴンチャローヴァ( Гончарова, Наталья. Сергеевна. )(*25)に代表されるプリミティヴィズム、そしてレイヨニスム(*26)。複数視点を特徴とするキュビスムと、力動性の概念に特徴づけられたフトゥリズム(未来主義)の二つからからの影響で生まれたキューボ・フトゥリズム(立体未来派)(*27)。そして無対象を指向するマレーヴィチのシュプレマティスム(*28)。タトリンのカウンター・レリーフから始まった構成主義(*29)。これらをひとまとめにして、一般的に「ロシア未来派」と呼ぶこともある。フィローノフの青年期はこの未来派時代であったが、当然のことながら彼もその渦中に入っていった。 1910年、フィローノフは、ペテルブルグで開催された『青年同盟(*30)』展で、初めての作品発表を行う。1913年、『青年同盟』は、モスクワ( Масква )のダヴィド・ブルリューク( Бурлюк, Давид Давидович. )(*31)やマヤコフスキー( Маяковский, Владимир Владимирович. )(*32)ら未来派の詩人グループ『ギレヤ』と合体し、『未来人劇場』を実施する。この時、30歳のフィローノフは、マヤコフスキーの戯曲『悲劇ウラジーミル・マヤコフスキー』の舞台装置をデザインする。

 フィローノフは『青年同盟』の解散直後である1914年1月に、サンクト・ペテルブルグにおいて新グループ『画家と素描家の私的スタジオ』を結成、マニフェスト『つくられた絵画(*33)』を発行する。

 1917年、二つの革命(*34)の結果、ロシアに世界初の社会主義政権が誕生する。最初のボリシェヴィキ( Болшевики. )(*35)政府・ソヴナルコム( Совнарком )(*36)議長であるレーニン( Ленин, Владимир. )や、教育人民委員ルナチャルスキー( Луначарский, Анатолий Васильевич. )(*37)の文化に対する方針は、伝統的芸術からアヴァンギャルドまで、幅広い支持と後援を与えるというものであった(*38)。古いものに対する破壊的な考えを持つ者を押さえ、むしろ古いものの中で最良のものを保存し、その上に新しい文化を創ることを選んだことで、文化の多様性を許容した(*39)。ルナチャルスキーはナルコムプロス( Наркомпрос 教育人民委員部) (*40)内に『イゾ( ИЗО 造形部門)(*41)』の設置を決め、革命前から美術界で公認されていた美術家同盟を中心に、革命後の美術運動を再編成する目的で、全ての美術団体に対し中立政策をとり、その自由な発展を保証する主旨をもって、新政権に協力するよう求めた。しかし、ボリシェヴィキに敵対し、新政権が長期にわたって存続しないと信じていた美術家同盟はこれを拒否した(*42)。これにより、1918年設立された『イゾ』の人事は、新政権を支持していた未来派を中心としたアヴァンギャルド系の人々によって組織されることになったのである。このことが、革命後のロシア・アヴァンギャルドの爆発的な発展に寄与したことは言うまでもない。そして、この時期に美術館に買い上げられた作品が、貴重なコレクションとして今日に至るのである。

 1919年、フィローノフはペトログラード( Петорофрад )冬宮(*43)における『第一回国立自由芸術作品展』に参加し、注目を浴びる。会場を訪れたヴィクトル・シクロフスキー( Шкловский, Виктор. )は次のように書いている。「展覧会の頂点をなしているのはフィローノフだ。この男はヨーロッパの田舎者ではない。仮に田舎者だとしても、その田舎というのは、自分のために新たなフォルムを創り上げ、廃れてしまった中央を征服するために遠征を企てている、そんな地方のことだ。彼の絵にはスケールの大きい振幅、巨匠のパトスが感じられる…(略)…今、フィローノフには、輸入された絵画にはないロシアのエネルギーがある。」(*44)

 1920年、モスクワにイゾの一部門として、カンディンスキー( Кандинский, Василий. )を所長にインフク( ГИНХУК モスクワ芸術文化研究所)(*45)が設立され、1923年にはペトログラードにギンフク( ГИНХУК ペトログラード国立芸術文化研究所)(*46)が設立される。この年、フィローノフも短期間ではあったが、ギンフク会員に選出される。これによって、フィローノフは、1925年の6月から9月まで、かつての美術アカデミーで授業を担当することとなる。教育者としてのフィローノフは、大変な人気だった。アカデミーでの授業の受講生は70人を数えた。その後結成される『分析的芸術工房( МАИ マイー)(*47)』においても、40人余りの美術家を指導していたという(*48)。

 フィローノフやアヴァンギャルド芸術にとって、社会的には最高の時期であったこの年、フィローノフは『芸術生活』にマニフェスト『世界的開花宣言(*49)』を発表した。ここで彼は、ピカソのキュビスムを筆頭に、タトリン、マレーヴィチ、ペトロフ=ヴォートキン( Петров-Bодкин, Кузьма Сергеевич. )(*50)ら、多くのロシア・アヴァンギャルドの美術家をも、「リアリズムのふたつの述語」、すなわち色彩と形態というふたつの属性のみに縛られているという点において、リアリズム的であり、「スコラ哲学的」、と批判している(*51)。彼のキュビスムに対する批判は、1910年代から一貫している(*52)。しかし、ここに来て、同胞ともいうべきアヴァンギャルド作家達にも批判が向けられたことで、この後アヴァンギャルドそのものがソヴィエト体制下で孤立してゆく中、「二重の孤立(*53)」を生み、そのことは、後世のフィローノフ評価の遅れの原因の一つとされている。

 1922年、レーニンが病に倒れ、第一線から引退した頃、スターリン( Сталин, Иосиф. )が党書記長に就任する。彼は党内の人事権を最大限に利用し、党組織を官僚化し、他の党幹部たちを次々に孤立させてゆく。1924年のレーニンの死後、加速度的にいわゆる「党の国家化(*54)」がなされ、政府やソヴィエトは形骸化してゆく。最高指導者の一人であったトロツキー( Троцкий, Лев )は、文化は政治によって制限されない自由さを持ったものであり、芸術は政府からの不必要な干渉なしに栄えることが許されている、と考えていた(*55)し、トロツキーと対立していたブハーリン( Бухарин, Николай. )も、文化の多様性を強く支持していた(*56)にもかかわらず、スターリン派は彼らを失脚させ、それまでの文化政策を180度転換してゆく。

 1929年にルナチャルスキーは教育人民委員を辞任、その後文化政策は党書記局が直接行うようになる(*57)。同年、レニングラード( Ленинград )のロシア美術館でフィローノフの大規模な個展が計画される。しかし、この展覧会の開催に関してスターリン派に組織された労働者たちがストップをかけた。展示もされ、図録も印刷されたにもかかわらず、展覧会の一般公開の是非をもう一度審査し直すことになった。丸一年かけて様々な論争が新聞、雑誌などで行われ、結局三年間の延期の後、1932年中止させられてしまった。その年、党中央委員会決議「芸術団体の改組について」が発表され、『分析的芸術工房(マイー)』はじめ、全ての美術団体は解散させられる。1934年、第一回全ソ作家大会においていわゆる「社会主義リアリズム路線」が採択されると、あらゆる芸術の表現様式が規制されることになる。

 一般的に、この年がロシア・アヴァンギャルド芸術の最期であるとされている。さらに、この年に起こるキーロフ( Киров, Сергей Миронович. )暗殺事件(*58)を口実に、まずは政界における大粛清が始まり、トロツキーはじめレーニン時代の革命家・政治家たちが次々に逮捕、処刑されてゆく。続いて、トロツキーに組織された軍指導部や、十月革命を直接指導したサブリーダーたちも粛清される。こうして、反対派を力で押し切ったスターリンとその支持者たちは、いわゆる「文化革命」を導入、芸術を含め、あらゆる文化人・知識人も粛清の対象になってゆくのである。こうして、多くの美術家たちは、作風を「社会主義リアリズム路線」に合わせるか、国外に逃亡するか、沈黙するかのいずれかを余儀なくされた。フィローノフの場合は、三番目に当たるわけだが、決して制作を中断せず、自宅にこもって制作を続けたのであった。自分の作品を次世代のための手本とするため、作品を他人の手の渡すことを一切拒んでいたフィローノフにとって、自分の理論に従って制作し続けた1930年代は、貧困かつ孤独であったものの十分に制作時間を確保できたようだ(*59)。何点か、食をはむために描いたとされる社会主義リアリズム風の作品があるが、これらの数点を直接観る限り、描かれた主題がコルホーズ員であったり、工場の労働者であったりしていることと、一見普通の具象絵画風の形態と色彩を持っていると言うに過ぎず、近づいてみれば紛れもなくフィローノフの「分析主義」絵画であった。

 1941年、ドイツ軍による対ソ攻撃が開始された年、フィローノフは、レニングラード包囲戦の中、58歳で死去する。肺炎とも餓死ともいわれる。

 妹、エヴドキヤ・グレボーヴァ( Глебова, Евдокия Николаевна )(*60)により、戦火より救われ、保管されていた作品は、1977年、ロシア美術館に寄贈される。スターリンの死後、アヴァンギャルドの一部は解禁されたものの、多くはゴルバチョフ( Горбачев, Михаил Сергеевич )政権によるペレストロイカ・グラスノスチ政策の時代まで封印されていた。


III. フィローノフの分析主義

 

 フィローノフの「分析主義」は、対象を徹底的に細分化してゆく、ということに思われがちである。ロシアでも「フィローノフ=細分化されたイメージ」という意見は多かった。しかし、重要なのは、彼のいう「分析」とは、「直観」が伴わなくてはならない、そして「直観」には「分析」が伴わなくてはならない、という点にある。フィローノフは彼自身の制作の基本原理として、このことを「科学的分析的直観的リアリズム(*61)」と表記している。フィローノフは、その知覚的、認識論的な意味において、「分析=直観」と考えていた。このことは多くの研究者にフィローノフが「エキセントリック」「ファナティック(*62)」であるという論拠を与えた。しかし、フィローノフがいう直観は、ボウルトがいう「神智学的(*63)」直観ではなく、いわば右脳的な思考と、左脳的な思考が常に並列した、創造性のプロセスを示すものであり、ゲツェルズ( Getzels, J. W. )(*64)の「創造性の五段階(*65)」と同義に考えられる。それは、視覚的な眼である「視る眼」と、経験知とそれを活用する能力を伴う観察から導かれた「識(し)る眼」を用いることが前提となる(*66)。人体をデッサンするとき、対象の色や形をある程度正確に把握する観察力を身につけた者にとって、解剖学の知識を活用することにより、さらに深い観察が出来、より魅力的な表現が可能となる。即ち、対象を有機的に把握することにより、より多くの現象を表出することを目指したのである。対象の表面を機械的に写し取る、「スコラ哲学的」リアリズムは、対象の色彩と形態というふたつの要素しか見ていない。この点においては、視点を増やし、形態を再構成したキュビスムも同じである。フィローノフにとって、多くの同時代のアヴァンギャルド作家たちも同様に、形と色のふたつの要素しか見ていないばかりか、捨象していくことは要素の切り捨てであり、より後退しているようにしか見えなかったのかも知れない。

 フィローノフにとって、描かれる対象は、いかなるモチーフを描こうとも、その有機的全体性と生命のエネルギーであった。同時代のモダニズム作家の多くが、作品のテーマよりも手法に興味を移していった。また、抽象絵画が生まれるのもこの頃であったが、絵画が自然を再現表象するものであるという考え方は16世紀以降のものであり、イメージを記号化していったカンディンスキーにせよ、対象のイメージを取り除いたマレーヴィチにせよ、その表現の原点は決して新しいものではなかったといえる。それに対し、フィローノフは従来の絵画に描かれることのなかった「生命」や「エネルギー」を、他のモダニストたちと同様に、斬新な手法で描いた。このことは、フィローノフを高く評価できる点であるが、同時に、同時代人の理解を難しくした原因でもあろう。普遍的進化・発展を意味するものと思われる「世界的開花」というフィローノフの概念的な言葉には、フィローノフ自身が「世界的開花」の画家であると宣言するとともに、彼が描いた対象が示されているものと思われる。

 そして最終的に、部分は全体のための「細胞」であり、「分析=総合」でなくてはならないとされている。「完全性の原理(*67)」と呼ばれるこの考え方は、フィローノフの絵画制作の表現様式の要である。描かれた対象のひとつひとつがそれぞれ有機的に把握されているだけでなく、作品全体の中でのテクスチャー、筆のタッチのひとつひとつが、まるで生き物のように、有機的全体の一要素として作用するのである。そして、この生き物は死に絶えることのない、まさに普遍的な生命体なのである。

 フィローノフのマニフェストの中でも、印象的な造語である「ズデーランノスチ( сделанности )」、高度の技術的洗練によってつくりあげられた完全性、完成度の高い芸術作品の芸術性を意味するこの言葉は、「つくりもの性(*68)」、「生成変化(*69)」「完成状態(*70)」など様々な解釈がなされているが、素直に「造形性」と解釈して差し支えないであろう。ただし、フィローノフの「造形性」は一般的なニュアンスよりもはるかに厳しい意味である。

 フィローノフは、対象における有機性を見いだすことにより、その普遍的テーマを見いだしただけでなく、自らの作品における有機性を確立したことにより、その表現様式における普遍性をも見いだしたのだと言えるだろう。

 

IV. 作品分析

 

 『王たちの祝宴(1913)(*71)』、『三人の食卓(1914-15)(*72)』、『ペトログラード・プロレタリアートの公式(1920-21)(*73)』の三点は2002年5月20日(月)に常設展示の観覧の際に観たもの。 フィローノフ作品の常設は、以上三点のみであったが、そのすばらしさは想像以上のものがあった。特に、色彩の美しさと画集では確認できないマチエールの工夫に感動した。

 それ以外の作品は、全て2002年5月29日(水)、ロシア美術館作品収蔵庫(図3)にて特別に観覧させて頂いたもの。

 

 

(図3)国立ロシア美術館作品収蔵庫にて

 

1.『王たちの祝宴(1913)』(図4)

 

 175x215cm、カンヴァスに油彩。

 150号位の大きさ。フィローノフのプリミティヴィズム時代の傑作といわれている。

 形態に関しては、人物のデフォルメが印象的である。強調されていながら、人物の形態は非常にリアリティがある。そこには解剖学的な分析に立脚した描写がおこなわれていることに理由があると思われる。

 

(図4)

 

 色彩に関しては、明部は厚く不透明に、暗部は薄く透明にという古典的なメチエで制作されているようにみえる。不透明層は基本的には『ペトログラード・プロレタリアートの公式』みられる色味ほぼと同じ(フィローノフの明るいトーンの特徴がこの時点でみられる)。しかし、グレーズ(*74)による透層が入った分、重く強く見える。暗部は幾重にも透層が成されており、遠目にはその下層に不透明の明るい絵具層が存在することが判別できない。即ち、暗部にも不透明の厚い絵具層が下地に存在する。恐らくその部分は明部と同じようなタッチで描かれているものと思われる。結果的に明暗の差はドラマチックに付いており、この作品の迫力につながっているようだ。明暗をスポットライト的に使用している点も興味深い。この時点で、既に構成に長けたフィローノフの造形力が感じられる。

 まだ色面の分解はおこなわれていない。どちらかというと、象徴主義的な作品。

 

2.『三人の食卓(1914-15)』(図5)

 

(図5)

 

 103x101cm、カンヴァスに油彩。

 スクエアの40号くらいの大きさ。キャンバスを張り直したと思われる痕跡があった。画面右端を注意してみると、画面が少し大きくなっているのがわかる。『王たちの祝宴』から1〜2年程度しか経過していないにも関わらず、制作方法に大きな変化がみられる。まず、暗部は透層の使用もみられるが、前作より少な目で、不透明な茶色も使用されている。明部の色使いは基本的には同じだが、いよいよ色面分割がおこなわれている。

 ただし、まだフィローノフの分析主義的な作風というよりも、どちらかというと立体=未来主義的作風である。

 

3.『世界的開花(1915)(*75)』(図6)

 

(図6)

 

 154.5x117cm、カンヴァスに油彩。

 生の麻に下地を造り、描いている。以外と厚い。

 不透明と透明の重ね、古典的な手法。基本的に暗部も厚い不透明層がある。その上に透層で暗くしている。

 花の中心に行く程分割は細かく、周辺部に行く程大きくなっている。下部に行く程細長い分割になっている。①矢印方向にリズム良く縮小されている花部分、②方向左右に花の流れ、③方向の大きな細長い色面の流れ(図7)、主にこの三つが明部である。

 この作品を観た瞬間、はっとさせられたのは、一瞬花が動いているように感じられることだ。作品に近づくと、特に①の方向にスーッと吸い込まれるように見える。画集でみたときにはそのように思わなかったのだが。視線を誘導させられる。実に訴求力の強い作品である。

 

(図7)

 

 先程の『三人の食卓(1914-15)』と比べると、色面分割に決定的な違いがある。『三人の食卓(1914-15)』では、色面は外面的な形態に沿って入っているが、この作品では、むしろそれをさえぎるように使われている。ただし、ランダムに入れられているのではなく、明らかに流れを作っているし、もしかすると、他の形態を多重に積層させるような造形的操作とも考えられる。

 この作品は、明暗の構成などからは『王たちの祝宴』に近く、色面分割や転位表現などからは『ペトログラード・プロレタリアートの公式』に近いと言える。

 

4.『白い絵画(1919)(*76)』(図8)

 

(図8)

 

 72x89cm、カンヴァスに油彩。

 フィローノフの「フォーミュラ」時代の作品と思われる。

 明暗のコントラストがバランス、リズム共に良く入っており、見事である。明部の淡いトーンが非常に美しい。注目すべき点は、白の下地にヴィヴィッドな色調が隠されていた事だ。高彩度の色の上に白を薄くグレーズしたり、厚くスカンブリング(*77)して下地の色調を響かせているのである。これ以前の作品にはこの技法は使われていないため、この時期に修得したものと思われる。これらの手法を考えると、ますます制作過程は複雑になっており、かなりの計画性を要求される。一見するとほとんど抽象絵画の様相であるが、よく観察すると、人物が描かれているようだ。これらの点から、下絵、エスキースの類を作ってから本作に臨んでいることは間違いない。

 暗部は茶の透層によって明部とのコントラストをつけているという点で、『世界的開花』と同じであるが、明部の方法が『ペトログラード・プロレタリアートの公式』や『顔(1925)』と同じであり、初期の重厚さと後期の洗練されたペールトーンの色調とが併せ持たれた作品である。

 

5.『ペトログラード・プロレタリアートの公式(1920-21)』(図9)

 

(図9)

 

 154x117cm、カンヴァスに油彩。

 「フォーミュラ」時代の代表的作品であるとともに、全フィローノフ作品の代表作の一つでもある。

 P100位の大きさ。画集から想像していたよりもサイズ的には小さいのだが、実際の印象としては実寸より大きく見える。今回常設されていた三点の作品の中で、最も輝いていた。

 中央上から下まで、長方形の色面分割が、この作品の主人公というべき大きな人物像の形態の内側と周辺部に、流れるように集中的に配置されている。

 最上層から確認できる透層は無く、全て乾いたマチエールである。ホワイト部分が厚く、若干の亀裂部分がみられた。

 中心部の淡い色調部分の下地に高彩度の色味が存在した。上から不透明の白を薄めに、即ち画用液でグレーズするように重ねている。あるいはドット調にスカンブリングしている。

 淡いグレー調のグリーンの下に高彩度のブルーを発見することが出来た。このあたりが、フィローノフ作品のペールトーンカラー部位の美しさの秘密と思われる。

 形態の多重部分に、画集等では確認できない細かいタッチが存在する。古典技法のハッチングのような、スカンブル効果を狙ったものと思われる。

 画面中心部に向かうほど、色調は高明度で低彩度であり、周辺部(特に四隅)の色調は高彩度である。画面周辺部に配置された同心円は中心に行くほど細かい分割が観られると共に、高彩度である。

 これらの洗練された色彩構成は、よく考えられており、その最上層の絵の具だけでなく、下層の色とのハーモニーを重視した積層から判断して、かなり計画的な制作プロセスが想像できる。だからといって、下絵段階で色彩まで決めているとは考えない。それは、フィローノフの油彩は、多重に積層された絵の具層が有機的に響きあっており、紙の上に水彩などで着彩した程度の下絵では、その色感は表現できない。従って、色を使った下絵を描いたとしても、完成作品は異なってくるはずである。従って、フィローノフの下絵は、おそらく構図・構成を決めていくことを中心としているはずである。また、色彩に関しては、完成図のイメージが大まかに頭の中に出来てきた状態で進めているように思われる。

 カンヴァスの目が見える、絵の具の厚みが比較的薄い部分を観察すると、鉛筆による分割線の下描きがみられた。鉛筆の線が見えない部分の絵の具の厚みも、不自然な差になっていない。また、鉛筆はカンヴァス上で消すと跡が残るが、その形跡はみられなかった。これらから判断して、この作品にはエスキースは勿論、かなり完成図に近い下絵が存在する可能性が高い。

 どの部分を観ても高い完成度と密度があり、隙の無い構成と例えようもなく美しい色彩。フィローノフの絵画理論の中に「完全性の原理」というのがあるが、これこそまさに「パーフェクト」な作品である。このあたりで、フィローノフの分析主義のスタイルが確立してきたといえる。

 グレッブ・エリショフ氏によると、この作品は、ロシア革命という社会現象にインスパイアされたフィローノフが、世界の巨大な転位に関する総合的考察として描いたものだという(*78)。この作品が制作されたのは1920年から21年である。1918年、35歳で軍役を終えて帰国したフィローノフが、1919年に参加したペトログラード冬宮において開催された『第一回国立自由芸術作品展」において大変な注目を浴び、22年にはベルリンにおける『ロシア・ソヴィエト美術展』にも参加するという、彼の人生の中でも最も輝かしい時期であった。

 この作品からは、幾何学的な抽象形態の無数の断片を通して、幾つかの具象的形態の輪郭がにじむように観えてくる。中央やや左に観える最も大きな人物の形は、エリショフ氏によると前進するプロレタリアート、言うなれば当時のヒーロー的存在であるという。この話を聞いたとき、私がこの作品が好きだと言ったことによって、何故、コテーリニコフ夫人(*79)の機嫌が悪くなったのかが理解出来た。反体制芸術家・コテーリニコフ氏の妻が、思想的に反社会主義であることは想像に難くない。しかし、「テーマで作品の価値が決まるわけではない。どのように描かれているかということに私は着目したい。」と話すと、「芸術作品は形式ではなく内容が全てではないですか。」という驚くべき答えが返ってきた。

 フィローノフ始めアヴァンギャルドの芸術家たちは、「何を描くか」よりも「いかに描くか」を重視している、とスターリンに批判され、「形式主義者」の烙印を押された。時代を超えて、立場を異にするはずの反体制芸術家の妻の考えが、まさに、このスターリンの考えと同じであったことは、大いなる皮肉である。

 

6.『春の公式(1922-23頃)(*80)』(図10)

 

(図10)

 

 100x100cm、カンヴァスに油彩。

 これも「フォーミュラ」時代の作品。基本的には不透明の重ねがほとんどのように思われるが、スカンブル調の不透明層の下にはグレーズ層があるように思われた。色の重ね方に、ポリフォニックな響きを感じる。

 眼を近づけると、象形文字を思わせる描き込みが存在する。

 もう、『世界的開花』のような重厚な暗部はみられないが、『ペトログラード・プロレタリアートの公式』や『顔(1925)』の明部のような、ペールトーンの色調でもない。『ペトログラード・プロレタリアートの公式』や『顔(1925)』の一部にみられるヴィヴィッドな色調を中心とした配色の作品である。

 

7.『顔(1925)(*81)』(図11)

 

(図11)

 

 67x48cm、紙に油彩。

 P15位の大きさ。画集などから受ける印象と比べ、以外に小さい。思っていたより白い。そして非常に美しい色彩に圧倒される。ホワイトの使い方に特徴がある。画面の周辺部の厚く塗った部分にはナイフでひっかいたような部分があり、そこから下色がのぞくようになっている。また、淡い色調の部分にはホワイトのグレーズがみられ、また、ハッチング調に白を使っている部分も多くみられる。はっきりとヴィヴィッドな色がのぞいているのは頭頂部の上のみで、その他の部分はホワイトの工夫した使い方によって、非常に淡い調子が美しい響きで感じられる。

 

8.『ふたつの顔(1925)(*82)』(図12)

 

(図12)

 

 58x54cm、紙(ワットマン紙重ね貼り)に油彩。

 意外に小さいサイズに驚いた。スクエア10号位の大きさである。画集では非常に大きく見える。透層と思われた顔のブルーの多くは、基本的に不透明層であった。一部(瞼の部分など)に透明っぽい重ねが存在するものの、そのマチエールは乾いているのである。この点に関して、後にエリショフ氏に聞いて判ったことであるが、この作品はキャンバスではなく、厚紙に油彩で描かれた作品であるとのこと。と、言うことは、透層部分でありながら、油分を紙が吸収してしまうことで、乾いて見えたという可能性が大きい。

 前項で紹介した『顔』と同年に描かれている作品であるが、その色彩、マチエールは対照的である。この作品には白っぽい不透明な描写が全くと言っていいほど行われていない。

 

9.『山羊(1930年代初め)(*83)』(図13)

 

(図13)

 

 80x62cm、紙に油彩。

 再び、画面に分割が行われるようになる。ただし、以前の長方形の流れるような分割ではなく、もっと有機的で不定型な、細胞のような形態を画面全体に配置している。動物のシルエットの内側にも外側にも描かれている。オリガ・シヒリョーヴァ氏によれば、フィローノフの世界認識の独自性をうかがい知ることが出来る作品であるという。フィローノフは自分を取り囲む外界をすべて相互な関連の中でみており、そこでは、フォルムは、それに生命があろうとなかろうと、互いに内的な類似性と関連性を持っており、相互に交流し合い、輪郭が新しくなるたびに破壊と生成を繰り返す(*84)。なるほど、確かにフィローノフの絵画を説明する上で、もっとも顕著にその「完全性の原理」の有機性が現れているように思える。

 この作品も紙に描かれており、グレーズ層が確認しにくい。ただ、『ふたつの顔』に比べると、明らかに不透明の描写とわかるものが最上層には多かった。グレーズの可能性があるのは山羊の下部の暗部や、画面右上の白っぽい象形文字のように見える、細胞壁状の描き込みの隙間の暗部などであるが、いずれにせよ、下層の仕事であり、最終的には明るい色で描き起こして終わっているようだ。白っぽいドットによるスカンブリングが数多く観られ、非常に高密度になっている。おそらく、全体性を保つ意味でのグレーズ、より細分化したスカンブリングと、交互に仕事をしていくことで、バランスを保ち、密度を上げていったのだろう。

 


V. むすび

 

 フィローノフは今日、ロシアにおいて正当に評価され、マレーヴィチらと並んで、ロシア・アヴァンギャルドの代表的画家として位置づけられている。ペレストロイカ以降、国内外で多くのロシア・アヴァンギャルド展が開催され(*85)、フィローノフも広く知られるようになった。しかし、我が国では相変わらず、フィローノフに関しては知られていないに等しい。かつて、ソ連時代の頃は、情報公開がされていない国だから、という部分もあるように思えた。だが、現在のロシアは、ある意味日本よりも自由な社会である。情報が入ってこないのは国交の問題もある。だが、ロシアにおいては日本の文化に対する関心度が高いし、その需要に対する供給もそれなりにおこなわれているようである(*86)。このことは、日本人のロシアに関する関心の低さだけでなく、偏った嗜好性による結果であるように思う。少なくとも美術において、日本は「文化的後進国」である、ということ、日本人が関心のある国は、G7に代表される限られた先進国だけである、という点を今回の訪露ではっきり認識させられた。

 20世紀初めの30年余りの間に爆発的に起こった運動であるロシア・アヴァンギャルドであるが、レイヨニスム、シュプレマティスム、構成主義といった、当時の美術の最先端を行く様々な様式を生み出し、その後の世界の美術に多大な影響を与えた。その中でも、フィローノフと分析主義の特異さは際だっていたものの、スターリニズムによって黙殺されたこと、彼自身がロシアを去ることをせず、外国での発表活動も少なかったことなどから、彼の思想は「輸出」されなかった。

 この「フィローノフ評価の遅れ」ついて、当時のロシア美術界における「二重の孤立」という現象を挙げる考えもある。恐らく、実際にフィローノフを嫌う美術家も多かったであろう。しかし、真に実力のある美術家たちからは、彼は高く評価されていたという記録もある。例えば、社会主義リアリズム絵画の代表的画家として有名な、イサーク・ブロツキー( Бродский, Исаак. )は、フィローノフを高く評価し、彼が美術アカデミーで教鞭をとることを有益であるばかりでなく、必須のことであるとさえ考えていた(*87)。そして、フィローノフもブロツキーを芸術家としてだけでなく、ひとりの人間として評価しているのである。このように全く対照的な考えの芸術家が、互いに尊重しあい、理解しあうことが出来るのは、その芸術の価値を決定するのに、作品の内容や様式ではなく、その作家の芸術に対する真摯な姿勢のみが問われるのだということを知っているからであろう。

 現在のロシアにおける、一般論としての「フィローノフ再評価」の理由として、フィローノフはスターリン時代に全く評価されていなかったことから、反体制芸術家=「抵抗の画家」である、という見方が強いということが挙げられる。逆に、残念なことに旧ソ連時代に評価されていた芸術家たち(それがスターリン時代であっても、その後の再評価であっても)は、評価が下がってしまっている(*88)。しかし、表面的にはそのように感じられたとしても、彼らは決して当時の政治体制を批判する作品も、賞賛する作品もつくっている訳ではない、ということを強調しておきたい。本来、芸術というのは、描かれた内容やテーマにかかわらず、よいものはよい、つまらないものはつまらない、というものではないだろうか。それは、音楽ならメロディ、ハーモニー、リズムといった音楽性、文学なら文学性、そして美術なら、造形性によってその真価を問われるべきではないかと思うのである。

 前述のように、フィローノフは1930年代に『コルホーズ員(1931)(*89)(図14)』、『「赤い曙」工場の女性労働者(1931)(*90)』、『プチーロフ工場のトラクター作業班(1931)(*91)』など、社会主義リアリズム風の作品を制作している。これらは、当局に強制された「社会主義リアリズムへの献身と食をはむために強いられた妥協の結果」であるという見方もある。しかし、フィローノフがリアリズム風の描写で制作した作品は生涯を通して何点も存在する。例えば、『エヴドキヤ・グレボーヴァの肖像(1915)』などは『世界的開花の花』と同時期に制作されている。また、『コルホーズ員(1931)』などは、よく観ると色面分割をしており、絵の具の重ね方もフィローノフの手法そのものである。残りの二点は、色面分割こそされていないものの、描写の方法は彼の手法である。恐らく、これら三点は結果的には依頼主である工場や団体の気に入るものには仕上がらなかったのであろう。

 

(図14)

 

 これら三点の作品は、ロシア美術館収蔵庫(写真2)で実際に観ることが出来た。しかし、たびたび、コテーリニコフ氏やエリショフ氏に聞かされた、『スターリンの肖像(1936)(図15)』の実物は観ることが出来なかった。彼らは、「抵抗の画家」フィローノフが、晩年、スターリンに屈服し、妥協で描いた作品であると考えているようだ。しかしながら、私はフィローノフが仕方なくこの作品を描いたかどうか、彼の心情を推測することに意味があるとは思えない(*92)。彼がこの依頼に示されたテーマが、気乗りしないものであったとしても、どのように描くかということの方が実技者にとって重要である。従って、私には、むしろ、出来上がった作品がどのような質のものであるかということの方に関心があった。

 ある時、エリショフ氏に『スターリンの肖像(1936)』を写真で観せてもらう機会があった。通常、社会主義リアリズム絵画に描かれるスターリンは、ヒロイックで力強く、偉大な指導者であることが一目で理解できるように作られている。しかし、フィローノフの作品は違った。私はこんなに暗くて凡庸なスターリン像を観たことはなかった。

 

(図15)

 

 私は、このフィローノフのスターリン像を観たとき、エイゼンシュテイン( Эйзенштейн, Сергей Михайлович. )とその映画作品『イワン雷帝(*93)』のエピソードを思い出さずにはいられなかった。エイゼンシュテインはこの作品を三部で構成し、第一部では「ロシア統一の英雄イワン」を、第二部では「冷徹な独裁者イワン」を、第三部では「孤独な人間イワン」を描こうとした。第一部こそスターリン賞を受賞したものの、第二部は上映禁止、第三部は撮影中止、フィルム廃棄の憂き目をみることになった。ここには、いずれ自分の伝記映画をエイゼンシュテインに創らせようと考えていた、イワン雷帝を尊敬するスターリンと、イワン雷帝を通してスターリンの真の姿を描こうとしたエイゼンシュテインの戦いがあったのである。これは国家統一を成し遂げ、専制を築きあげたイワン雷帝の残酷無慈悲な弾圧や孤独の影にスターリン体制への批判が込められていたのである。

 フィローノフの『スターリンの肖像(1936)』は、レニングラードのクラブからの依頼で描かれた作品だが、結果として彼もまた、エイゼンシュテインと同様の「スターリンの真実」を描いたように思えてならない。

 フィローノフの作品を直に観ることで、多くの点が明らかになった。フィローノフはその生涯を通じて、自らの分析主義というコンセプトを守り通したが、その作風は多岐にわたるものであった。また、かなり短い期間に、多くの違った作風の作品を制作しているのも注目に値するだろう。このことは、フィローノフの技術的レベルの高さを表すものであると考える。そして、初期の作品から晩年に至るまで、古典的な技術を応用した画法を用いて、かなり計画的な画面作りをしていることも見逃せない。描写法、画面構成、色彩などの観点から判断して、非常に高度な造形的操作が観られ、とても知的な作品だといえるだろう。どのように見えるか、というより、どう見せるかを意識して制作された作品だということである。

 エリショフ氏やシヒリョーヴァ氏など、専門家たちと交わした「フィローノフ再評価」の共通意見は、主に以下の二点であった。第一に、多くのアヴァンギャルド芸術家たちが抽象に目覚めたが、フィローノフは最後まで具象を捨てなかったこと。そして、キュビズムの克服に関する独自の方法論である。カンディンスキーのように形態を再構成するといった方法を採らず、置き換えたり単純化するという抽象化の方法も選択せず、「分析主義」を創始し、見事にキュビスムの持つ欠点を克服したこと。

 フィローノフが当時「二重の孤立」に陥ったのも、彼の作品と理論が、時代をはるかに追い越してしまっていたから(*94)であろう。フィローノフの絵画と理論は現代においても決して古くない。このことは彼の普遍性を証明するものである。フィローノフはまさに「世界的開花」したと言えるのではないだろうか。

 


資料・フィローノフ関連年表

 

1883 モスクワに生まれる。

1887 父親の死。

1896 母親の死。

1897 ペテルブルグの姉の嫁ぎ先のアパートに移る。

1903-08 アカデミー会員レフ・ドミトリエフ=カフカスキーの画塾に通う。

1908-10 美術アカデミーに通う。

1910 アカデミーを追われる。『青年同盟』に参加。

1912 イタリア、フランスへ旅行。

1913 ヨシフ・シコーリニクと共同で、マヤコフスキー作『悲劇ウラジーミル・マヤコフスキー』の舞台装置をデザインする。

1914 マニフェスト『つくられた絵画』を出版。

1914-15 未来派の小冊子のイラストを担当。自分で挿絵を描いたザーウミの長詩『世界的開花の歌』を出版。いわゆる、『分析的芸術とつくりもの性の原理のイデオロギー』の理論に取り組み始める。

1916-18 ルーマニア戦線で軍務に服する。

1917 ロシア革命。革命政府、人民委員会議長(首相)にレーニン、外務人民委員(外相)にトロツキー、教育人民委員(文相)にルナチャルスキー就任。

1918 ナルコムプロス(教育人民委員部)内部機関としてイゾ(造形部門)設立。キュビズムの画家シュテレンブルグが責任者に。モスクワ支部長にタトリン、ペトログラード支部長にアリトマン。

1919 ペトログラード冬宮における「第一回国立自由芸術作品展」に参加。注目を浴びる。

1920 イゾの一部門としてインフク(モスクワ芸術文化研究所)初代所長カンディンスキーのもとにモスクワに設立。タトリンとプーニンを責任者としてペトログラードに、マレーヴィチを責任者としてヴィテヴスクにそれぞれ支部設立。

1921 ギンフク(ペトログラード国立芸術文化研究所)の前身、芸術文化博物館設立。カンディンスキー、ロトチェンコらとの対立からインフクを辞任。カンディンスキー、ロシア芸術学アカデミー副総裁就任、研究のためドイツに派遣されるが、そのまま帰国せず、バウハウスに。

1922 ベルリンにおける「ロシア・ソヴィエト美術展」に参加。レーニン発病。共産党大会でスターリン書記長選出。レーニンとトロツキー、秘密会談で反スターリン・ブロックの成立。ソヴィエト連邦成立。

1923 「ペトログラード芸術家全潮流絵画展」に参加。マレーヴィチ、マチューシン、タトリン、プーニンを責任者にギンフク設立。フィローノフ、ギンフク会員に選出され、ペトログラード美術アカデミー教授となる。『芸術生活』にマニフェスト『世界的開花宣言』を発表。スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフと「トロイカ」を組み、トロツキーに対抗。レーニン、遺書作成、スターリンと絶交宣言、スターリン解任を提案。

1924 レーニン死、後継首相にルイコフ。ペトログラードをレニングラードと改称。レーニンの遺書発表されず。

1924頃 セレブリコフの未亡人、「ナロードナヤ・ボーリャ(人民の意志派)」のメンバー、エカテリーナ・セレブリャコーヴァと結婚。

1925 レニングラードで『分析的芸術工房(マイー)』(フィローノフ派)を創設。党中央委員会の批判を受け、トロツキー、軍事人民委員(国防相)を辞任。

1926 トロツキー、ジノヴィエフ及びカーメネフと合同反対派を組織、スターリン・ブハーリン連合派と争う。トロツキーとジノヴィエフ、党政治局員から解任。

1927 『マイー』、レニングラードでイーゴリ・テレンチェフ演出/ゴーゴリ作『検察官』の舞台美術を担当。レニングラード出版会館にてバスカーコフ主宰、『分析的芸術工房(マイー)』(フィローノフ派)展開催。注目を浴びる。インフク閉鎖。共産党、トロツキー、ジノヴィエフら反対派除名。

1928 トロツキー、アルマ・アタに追放。

1929 レニングラード・ワシリエフスキー島の金工クラブにてアジテーション演劇『ガイキン王一世』の舞台デザインを担当。トロツキー、国外追放。ルナチャルスキー、教育人民委員を辞任、後任にブーブノフ。党中央委員会総会、ブハーリン、ルイコフらを政治局から追放。

1929 レニングラードのロシア美術館で個展が企画されるが、三年間の延期の後、中止させられる。

1930 マヤコフスキー自殺。

1931-33 『分析的芸術工房(マイー)』、フィンランドの叙情詩『カレワラ』(ロシア・アカデミー版)の挿絵を制作。

1932 レニングラードにおける「回顧15年ロシア共和国芸術家展(プーニンらの企画)」に参加。党中央委員会決議「芸術団体の改組について」が発表され、『分析的芸術工房(マイー)』に解散命令。

1933 モスクワにおける「回顧15年ロシア共和国芸術家絵画展1917-32」に参加。

1934 第一回全ソ作家大会、ソ連作家同盟結成、社会主義リアリズムが唯一の創作方法として採択。キーロフ暗殺事件。

1935 プーニン逮捕、短期間の留置。ジノヴィエフ、カーメネフ逮捕。

1936 ジノヴィエフ、カーメネフらキーロフ暗殺事件のモスクワ裁判で死刑判決、処刑。芸術界で形式主義批判キャンペーン、大粛清始まる。

1939 メイエルホリド逮捕。ドイツ軍のポーランド侵入、第二次世界大戦始まる(〜45)。

1940 メイエルホリド処刑。トロツキー、亡命先のメキシコで暗殺。

1941 ドイツ軍、対ソ攻撃開始。フィローノフ、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦の中、死去(肺炎とも餓死ともいわれる)。58歳。

1942 フィローノフの妻の死。フィローノフの姉マリヤと妹エヴドキヤ、フィローノフの作品と文書の一時保管のため、国立ロシア美術館に預ける。

1953 スターリン死去。

1956 フルシチョフによるスターリン批判、「雪どけ」始まる。

1960 妹エヴドキヤ、再度フィローノフ作品をロシア美術館に預ける。

1967 ノヴォシビルスクの芸術アカデミーのギャラリーにて、初の個展が開かれる。

1977 エヴドキヤ、フィローノフ作品をロシア美術館に寄贈。

1979 パリ、ポンピドゥー・センターにて「パリ=モスクワ・1900-1930」展が開催。

1980 エヴドキヤ・グレボーヴァ死去。

1985 ゴルバチョフ政権発足。ペレストロイカ始まる。

1988 ロシア美術館、モスクワのトレチャコフ美術館で大規模な「パーヴェル・フィローノフ」展開催。

1990 パリのポンピドゥー・センターで「フィローノフ」展開催。ドイツ・デュッセルドルフ市立美術館で「フィローノフとそのグループ」展開催。

1991 ソ連邦崩壊。

1992 フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館、アムステルダム市立美術館、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、トレチャコフ美術館、ロシア美術館にて「グレート・ユートピア ロシア・ソヴィエト・アヴァンギャルド 1915-1932」展開催。

2001 ロシア美術館およびモスクワ・アート・センターにて「パーヴェル・フィローノフ」展開催。

 

参考文献・図録一覧

 

展覧会図録

1. 西武美術館、ソ連文化省編『芸術と革命Ⅱ展 – ロシア・アヴァンギャルドの旋風:1920-30の肖像』図録、1987、西武美術館(東京)。

2. Министерство Культуры РСФСР, Москва, Государственный Русский музей, Ленинград. «Павел Николаевич Филонов. Живопись, Графика, Из собрания. » Аврора (Ленинград), 1988.

3. Pawel Filonow und seine Schule DuMont Verlag – Ausstellungskatalog der Städtischen Kunsthalle Düseldorf, 1990.

4. Centre Georges Pompidou, “Filonov.” (Paris) 1990.

5. Galerie Gmurzynska, “Die Physiologie Der Malerei. Pawel Filonow in den 1920er jahren.” ( Köln ) 1992.

6. Galerie Gerald Piltzer, “Malevitch & Filonov.” (Paris) 1992.

7. ペトローヴァ、エヴゲーニャ/水野忠夫監修『アヴァンギャルドとロシア美術 1900-1930展』図録、JVロシアン・アートプロジェクト、1992、丸井今井(札幌)。

8. 横浜美術館学芸部編『美術と演劇 ロシア・アヴァンギャルドと舞台芸術 1900-1930 ロバーノフ=ロストフスキー・コレクション』図録、1998、横浜美術館(横浜)。 単行著書(ロシア語文献)

9. Михаил Герман. “Сердцем Слушая Революцию…” Аврора (Ленинград), 1979.

10. Государственный Русский музей представляет “1920-1930 Живопись Государственный Русский Музей.” Советски художник (Москва), 1988.

11. Мислер, Николетта., Боулт, Джон Э. “Филонов Аналитическое искусство.” Советски художник (Москва), 1990.

12. Маркин, Юрий Петрович. “Павел Филонов.”Изобразительное искусство (Москва), 1995.

13. Ковтун, Евгений. “Русский Авангард 1920-х-1930-х годо.” Аврора (Санкт-Петербург), 1996.

14. Ершов, Глеб. “Павел Филонов.” Белы город (Москва) , 2001

15. Государственный Русский музей представляет “Павел Филонов.” Palace Editions(Санкт-Петербург), 2001.

 

単行著書(その他)

16. Gray, Camilla. “The Russian Experiment In Art 1863-1922”.(New York) 1962.

17. Bowlt, John E. , ed. “Russian Art of the Avant-garde: Thery and Criticism 1902-1934.” (New York) 1976.(『ロシア・アヴァンギャルド芸術』川端香男里他訳、岩波書店、1988。)

18. Misler, N. and Bowlt, J. E. “Pavel Filonov: A Hero and His Fate”. (Austin, Texas) 1984.

19. 水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド 未完の芸術革命』PARCO出版、1985。

20. Elliott, David. “Russian Art and Society 1900-1937.” (London) 1986.(『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992。)

21. 五十殿利治、土肥美夫、他編『ロシア・アヴァンギャルド4 コンストルクツィア-構成主義の展開』国書刊行会、1991。

22. 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波書店、1996。

23. 桑野隆『夢みる権利 ロシア・アヴァンギャルド再考』東京大学出版会、1996。

24. 大石雅彦『マレーヴィチ考 「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』人文書院、2003。

 

定期刊行物

25. Bowlt, John E.: “Pavel Filonov”- Studio International, (London), 1973.

26. Bowlt, John E.: “Pavel Filonov: An Alternative Tradition?”- Art Journal, (New York), 1975.

27. Bowlt, John E.: “Pavel Filonov: His Painting and His Theory”- Russian Review, (Stanford), 1975, July.

28. 「特集・パリ=モスクワ 20世紀言語の形成」『美術手帖12月号』、美術出版社、1979年。

29. 「特集=ロシアン・アート1900-1930」『アール・ヴィヴァン7・8月合併号』、西武美術館、1982年。

30. 「特集2・ロシア・アヴァンギャルド 芸術と革命Ⅱ」『美術手帖2月号』、美術出版社、1988年。

 

(*1) Санкт-Петербург. / Saint-Petersburg. サンクト・ペテルブルグ;ロシアでは首都モスクワに次ぐ第二の大都市。1703年にピョートル大帝によって建設される。1712〜1918年にはロシアの首都。1914年までサンクト・ペテルブルグ(通称ペテルブルグ)、1914〜24年ペトログラード Петорофрад / Petrograd と呼ばれたが、革命家レーニンの死を記念してレニングラード Ленинград / Leningrad と改称。1991年に最初の名称に戻り、現在に至っている。本稿では、それぞれ記載されている出来事の頃の名称で、この都市名を表記していることをお断りしておく。

(* 2) Котельников, Олег. / Kotlnikov, Oleg. コテーリニコフ、オレッグ;サンクト・ペテルブルグの画家、詩人。ミュージシャンから転身した。旧ソ連時代末期にいわゆる「ソッツ・アート」の美術家たちの一人に数えられるようになった。現在はペテルブルグ文化人の中でもある意味象徴的存在となっている、かつての反体制芸術家の活動拠点であった、「プーシキンスカヤ10」という建物のメンバーの一人。彼らはロシア政府から、そこに生涯無償で暮らす権利を保障されているという。

(*3) Navicula Artis ナビキュラ・アルティス;かつての反ソ芸術家たちの拠点、「プーシキンスカヤ10」内にある画廊の一つ。美術評論家アンドレイ・クリュカーノフ氏、グレッブ・エリショフ氏が運営している。

(*4) Филонов, Павел Николаевич. / Filonov, Pavel .Nikolaevich.フィローノフ、パーヴェル・ニコラエヴィチ;1883年モスクワ生まれ、97年にペテルブルグに移住、活動の拠点とする。1910年頃から頭角をあらわし、13年にはマヤコフスキイの悲劇『ウラジーミル・マヤコフスキー』の舞台装置を手掛けた。25年には『分析的芸術工房(МАИ/マイー)』を結成。1941年、ドイツ軍包囲のレニングラードで死去。

(*5) 国立ロシア美術館収蔵庫への入室に関して、副館長エヴゲーニャ・ペトローヴァ氏の要請により、学校法人武蔵野美術大学設置校・武蔵野美術学園に公式依頼状を作成して頂いた。

(*6) 柴田俊明『パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説 -分析的芸術論と作品にみられる彼の世界観に関する一考察-』東京芸術大学大学院修士論文、1994年。

(*7) манифест. / manifesto. 宣言文、声明書。

(*8) Bowlt, John. E. ボウルト、ジョン・E;1943年ロンドン生まれ、バーミンガム大学、セント・アンドルース大学に学び、モスクワ大学留学経験あり。テキサス大学スラヴ言語学科教授となってからも、米ソの文化交流プログラムに従ってしばしば訪ソ、ロシア・旧ソ連の最新の情報・知識の収集を一貫して続けている。テキサス州ブルー・ラグーンの近代ロシア文化研究所の所長として二十世紀ロシア文化の研究・紹介の事業を推し進めている。

(*9) 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波書店、1996、p.157。

(*10) Misler, Nicoletta. ミスレル、ニコレッタ;イタリアの学者。ナポリ東洋大学教授、近代ロシア・東欧美術専攻。

(*11) Misler, N. and Bowlt, J. E. “Pavel Filonov: A Hero and His Fate” Austin, Texas, 1984.

(*12) Мислер, Николетта., Боулт, Джон Э. “Филонов Аналитическое искусство.” Советски художник (Москва), 1990. ソヴィエト時代末期に刊行されたこの画集には、ボウルト、ミスレルの論文の露訳が掲載されている。

(*13) Шихирёва, Олга. / Shikhireva, Olga. シヒリョーヴァ、オリガ;国立ロシア美術館のキュレーター。フィローノフの専門家。

(*14) Ершов, Глеб. / Ershov, Gleb. エリショフ、グレッブ;ペテルブルグの美術評論家、キュレーター。ペテルブルグ国立大学で教える。フィローノフ研究の論文多数。

(*15) Малевич, Казимир Северинович. / Malevich, Kazimir Severinovich. マレーヴィチ、カジミール・セヴェリーノヴィチ(1878-1935);シュプレマティズムの創始者として知られる画家。1910年頃、ネオ・プリミティヴィズムの影響のもとに、独自のスタイルを作り上げる。その後、『青年同盟』、『ロバの尻尾』、『標的』、『0,10最後の未来派絵画展』、『ダイヤのジャック』など、数々の展覧会に参加。1915年、シュプレマティズムに関する自著を出版。革命後は美術学校や公的機関で要職を歴任すると共に、「アルヒテクトン」と呼ばれる空想建築に関わる。1927年、個展開催のため、ワルシャワとベルリンを訪れ、バウハウスと交流。1930年代、再び絵画制作を始め、具象回帰。

(*16) Татлин, Владимир Евграфович. / Tatlin, Vladimir Evgrafovich. タトリン、ウラジーミル・エヴグラフォーヴィチ(1885-1953);ロシア・ソ連の画家、造形作家。ロシア構成主義運動の創始者。モスクワに生まれる。同地の絵画・彫刻・建築学校でセローフ、コローウィンに師事、その後ペンザ美術学校にも学んだ。卒業後はモスクワ、レニングラード、キエフで美術教育に従事するかたわら、意欲的な制作を行った。早くからキュビスムと未来主義にひかれる。ソ連時代になってからは構成主義にひかれ、ガラス、金属、木片などの素材を使った実験的作品を制作。1920年代には抽象美術から大量生産による日常消費財の設計をも手がけた。また模型だけに終わったが、『第三インターナショナル記念塔』(1919〜20)の設計も有名である。このほか自分の名前をもじって名づけた『レタトリン』(1930〜31)とよばれる羽ばたき飛行機は、人間が空を飛ぶための道具であるが、最終的にはその翼のフォルムの美しさに魅せられて、実用的な目的を放棄したといわれている。舞台装置家としても活躍し、モスクワ芸術座など80以上の舞台を飾った。しかし、晩年は不遇で、スターリンの死後、フルシチョフの「雪どけ」が訪れるまではほとんど忘れられた存在であった。

(*17) 例えば、大石雅彦『マレーヴィチ考 「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』では、ロシア・アヴァンギャルド美術の代表的なものとして、マレーヴィチのシュプレマティスム、タトリンの構成主義、フィローノフの分析主義を挙げている(p.26、p.100)。

(*18) 1934年8月、マクシム・ゴーリキイらの指導のもと第一回全ソ作家大会が開かれ、ソヴェート作家同盟が成立、社会主義リアリズムが基本的創作方法として承認される。ここには芸術上のリアリズム概念と文学・芸術による人民の教育の機能とが結合されていて、1928年に始まった第一次五カ年計画による社会主義建設にともなうスターリン体制の政治の要請に文学・芸術を方向づけていく意図が込められていた。

(*19) 象徴主義 Символизм / symbolisme 19世紀末、フランスを中心としたヨーロッパで起こった反写実主義、反科学主義的な文芸・美術傾向。ラファエル前派、モロー、ルドンなどが挙げられる。ロシアにおいてもほぼ同時期に、宗教色の強い精神運動として誕生する。衰退した移動派を中心としたリアリズムに代わって登場した『芸術世界』派の周辺に集まった画家、ベヌア、ヴルーベリらがロシア象徴主義絵画の代表である。

(*20) 芸術世界 Мир Искусства./Mir Iskusstva( World of Art );世紀転換期の芸術グループで、1898年、アレクサンドル・ベヌア、後にロシア・バレエ団を率いるセルゲイ・ディアギレフなどによって結成された。展覧会を開催するとともに、同名の雑誌を創刊。1904年に一度解散するが、1910年に再興。その後、1927年パリで最後の展覧会を開くまで存続した。

(*21) 移動派 Передвижники/Peredvizhniki 19世紀後半ロシアにおけるリアリズム美術運動のグループ。1870年に創立され、正式名称は『移動美術展協会』。ペテルブルグ美術アカデミーの因襲的なアカデミズムに抗議して退学したクラムスコイほか14名の学生グループを中心に、先輩格のペローフらが加わって結成された。思想家ベリンスキー、チェルヌイシェフスキーらの思想的影響が強く、社会的なテーマを描いた。やがて、レーピンを始め多くの画家が参加、当時のロシア画壇で大きな役割を演じた。思想的には反アカデミズムでありながら、創作方法ではアカデミズムの枠にとらわれているという特徴がある。1871年に最初の展覧会を開催、1923年まで続いた。20世紀のソ連では、このグループを過大評価し、社会主義リアリズム絵画の源流として受け取っていた。

(*22) Врубель, Михаил Александрович. / Vrubel, Mikhail Alexandrovich.ヴルーベリ、ミハイル・アレクサンドロヴィチ(1856-1910);ロシア象徴主義の代表的画家。世紀末的雰囲気の中、反自然主義的な絵画独自の表現を追求した。『芸術世界』に参加。

(*23) Рерих, Николай Константинович. / Roelich, Nikolai Konstantinovich. レーリヒ、ニコライ・コンスタンチノヴィチ(1874-1947);ロシアの画家。探検家、考古学者、思想家、社会活動家としても知られ、文化を通しての世界平和を追い求めた。1936年以降、ヒマラヤのクルー渓谷に移り住み、晩年はヒマラヤ探検と研究に身を捧げた。『芸術世界』時代の象徴主義的傾向の作品から、インド時代のヒマラヤ・シリーズまで、その作品は7千点を上回る。ヒマラヤの岩石を使用した独特の青色は「レーリヒ・ブルー」と呼ばれる。

(*24) Ларионов, Михаил Федорович. / Larionov, Mikhail Fedorovich.ラリオーノフ、ミハイル・フョードロヴィチ(1881-1964);ロシア・ソ連、フランスの画家。ベッサラビア地方のチラスポリで生まれる。1898年、モスクワ絵画・彫刻・建築学校入学。生涯の伴侶となるゴンチャローヴァと出会う。1906年、ディアギレフとパリを訪れる。その後、国内外の多くの美術展に出品。1910年、ゴンチャローヴァらと共に『ダイヤのジャック』を組織、ネオ・プリミティヴィズムを標榜する。1911年に『ロバの尻尾』、13年に『標的』を組織した。モスクワの『標的』展で光線主義(レイヨニスム)のスタイルの絵画を発表。1916年、ゴンチャローヴァと共にパリに移住。その後、ディアギレフのロシア・バレエ団のために舞台美術を担当。

(*25) Гончарова, Наталья. Сергеевна. / Goncharova, Natalia Sergeevna.ゴンチャローヴァ、ナターリヤ・セルゲーエヴナ(1881-1962);ロシア・アヴァンギャルド美術の代表的女流画家。ネオ・プリミティヴィズムから未来主義、レイヨニスムと幅広い作風を持つ。ラリオーノフと共にパリに移住後、舞台美術の仕事に転向。

(*26) レイヨニスム layonnisme ロシアの画家ラリオーノフが20世紀の初めに提唱した絵画理論。ロシア語ではルチズムЛучизмで、光線を意味するルチから生まれた用語。光線主義。主としてラリオーノフとその夫人ゴンチャローヴァがこの理論を実践したが、その主張するところは、絵画を純粋化していけば究極のところ光線を描くことになるとして、画面を光線の交錯によって構成するものである。それはまた色彩のハーモニーとリズムとの関係をとらえることにも通じ、20世紀における抽象絵画の先駆的な仕事でもあった。

(*27) キューボ・フトゥリズム Кувофутуризм / kubo-futurizm 立体未来派、立体未来主義。セザニズムやキュビスムなど、フランスの新潮流と、イタリア未来派の動きと同時性を吸収したロシアの文学・美術運動。『ダイヤのジャック』、『ロバの尻尾』、『青年同盟』等のグループが1910年頃から次々に展覧会を開催、1913年にブルリューク、マヤコフスキーら未来派詩人のグループ『ギレヤ』と『青年同盟』が合体、ロシア未来派と立体未来主義の出発点となる。

(*28) シュプレマティスム Супрематизм. / suprematism ラテン語のsupremus「至高」を起源とする絵画理論。至高主義または絶対主義と訳されている。第一次世界大戦の初期にロシアの画家マレーヴィチによって提唱されたもので、自然を再現せず、幾何学的な造形と色彩だけを描くもの。無対象絵画。

(*29) 構成主義 конструктивизм / konstruktivizm ロシア革命(1917)を前後してモスクワを中心に発展した前衛的な芸術運動。絵画や彫刻の領域では、外界の再現によらず、純粋形態の「構成」によって新たな平面や空間の価値を目ざそうとした。従前あった自己表現としての芸術が否定されたところに大きな特色がみられる。新しい工業時代に即応した造形のあり方を尋ねようとする姿勢が顕著であり、その結果、在来の絵画や彫刻という枠組みを超えて多方面にこの理念が広がった。タトリンの「カウンター・レリーフ」などがその代表的存在であり、デ・ステイルやバウハウスに多大な影響を与えた。

(*30) 青年同盟 Союз Молодежи / Soyuz Molodiozhi ( Union of Youth ); 1910年結成され、同年そのマニフェストを採択した。同盟が組織した六回におよぶ展覧会には、ロシア・アヴァンギャルドを代表する主要な作家がほとんど全員出品した。『青年同盟』は30名以上のメンバーを有しており、同盟に属さずにその展覧会に出品した芸術家はごく少数だった。モスクワの芸術家グループ『ロバの尻尾』はその少数の中のひとつ。展覧会は以下の日程で開催された。1910年(ペテルブルグ、リガ)、1911年12月4日 – 1912年1月10日(ペテルブルグ)、1912年(モスクワ、『ロバの尻尾』との合同展)、1912年(ペテルブルグ)、1913年11月10日 – 1914年1月10日(ペテルブルグ)、また出版活動としては、組織と同名の『青年同盟』が1912年に一度、1913年に二度刊行された。

(*31) Бурлюк, Давид Давидович. / Burlyuk, David Davidovich. ブルリューク、ダヴィド・ダビドヴィチ(1882-1967);ロシアの詩人、画家。ハリコフ近郊に生まれる。カザン、オデッサの美術学校で学んだのち、ヨーロッパに留学。第一次ロシア革命(1905)のさなかに帰国し、その後『ダイヤのジャック』展への参加、『ロバの尻尾』グループの結成などを通して、ロシア・アヴァンギャルド美術の成立に深くかかわった。また、ロシア未来派(フトゥリズム)のオルガナイザーとしても活躍し、マヤコフスキー、フレーブニコフらの才能を世に送り出した。革命後、極東に逃れ、ウラジオストクの未来派詩人たちと合流したが、その後まもなく日本を経由してアメリカに渡った。多年にわたって雑誌『色彩と韻』(1930〜66)を主宰した。

(*32) Маяковский, Владимир Владимирович. / Mayakovskiy, Vladimir Vladimirovich.マヤコフスキー、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ(1893-1930);グルジア生まれ。未来派を代表する詩人。画家を志したが、美術学校で未来派の画家・詩人ブルリュークと知り合い詩に転じた。愛と革命をテーマに歌い、自殺。彼の作風は、ロシア未来派の伝統拒否、技術重視の影響が著しく、独特のダイナミックな詩型、激烈な比喩、アニミズム的擬人化、民衆芸能的パロディー、語呂合せ、誇張や変形などとともに、風刺と内省、叙情と叙事の奇跡的な結合がみられる。その後のソ連の詩人だけではなく、20世紀の世界の詩人たちに重大な影響を与え、現代の詩に新鮮な領域を切り開いた。

(*33) “Сделанные картины”, Типографский буклет, на обложке котородуцирован «Мир королей» П. Н. Филонова. Санкт-Петербург, 1914. English translation in Misler and Bowlt, Pavel Filonov: A Hero and His Fate, Austin: Shilvergirl, 1983, p.135. 邦訳、柴田俊明『パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説 -分析的芸術論と作品にみられる彼の世界観に関する一考察-』東京芸術大学大学院修士論文、1994、p.62。

(*34) 帝政を倒し、臨時政府とソヴィエトの二重権力が生じた「二月革命」と、臨時政府を倒した「十月革命」のこと。

(*35) Болшевики. / Bolsheviki. マルクス主義の立場にたつロシア社会民主労働党は、1898年にミンスクで開かれた第1回大会で結成された。しかし、大会後の一斉逮捕で活動が中断し、1903年夏、ブリュッセルとロンドンで開かれた第2回大会が事実上の結成大会となった。この大会で党規約第1条の党員資格問題をめぐり、職業的革命家の党を目ざすレーニンと、より幅広い活動家の党を目ざすマルトフとが対立したが、その後の党人事問題ではレーニン派が多数派となったため、のちにレーニン派をボリシェビキ(多数派)、マルトフ派をメンシェビキ(少数派)とよぶようになった。

(*36) Совнарком, СНК – Совет народных комиссаров / Sovnarkom – The council of People’s Commissars ソヴナルコム;当時のソヴィエト政府の名称、人民委員会議。1946年に閣僚会議と改称。大臣とか内閣といった名称を避け、このような名称になった。

(*37) Луначарский, Анатолий Васильевич. / Lunacharskiy, Anatoliy Vasilevich. ルナチャルスキー、アナトリー・ワシーリエヴィチ(1875-1933);批評家、文芸学者。スイスとフランスで学ぶ。国外で活動し、二月革命後、帰国。革命直後から1929年まで教育人民委員を務める。モダニズムの理解者で知識人の支持を得る。スターリン主義の台頭と共に閑職に追われる。スペイン大使として赴任途中、フランスにて客死。

(*38) エリオット、デイヴィッド『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992、p.82。

(*39) エリオット、デイヴィッド『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992、p.94。

(*40) Наркомпрос – Народный комиссариат просвещения / Narkompros- People’s Commissariat for Education. ナルコムプロス;教育人民委員会。文部省に該当する政府機関。

(*41) ИЗО – / IZO イゾ;「造形部門」の略。1918年、教育人民委員部内に設立された美術教育研究機関。

(*42) 水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド 未完の芸術革命』PARCO出版、1985、p.111。

(*43) 現在のエルミタージュ美術館。

(*44) Шкловский, Виктор. “Свободная выставка во Дворце искусств” Жизнь Искусства. Петорофрад, 1919, №149-150. 引用、Ковтун, Е. Ф. “Русский Авангард 1920-х-1930-х годо.” Аврора (Санкт-Петербург), 1996, С.132.

(*45) ГИНХУК – Институт художественной культуры / INKhUK – Institute of Artistic Culture, Moscow インフク;「芸術文化研究所」の略。1920年5月にモスクワのイゾ内部に設置された。1927年に閉鎖。

(*46) ГИНХУК – Государственный институт художественной культуры / GINKhUK – Institute of Artistic Culture, Leningrard ギンフク;「国立芸術文化研究所」の略。1923年、ペトログラードの芸術文化博物館に設置。1926年に閉鎖。

(*47) МАИ – Мастера аналитического искусства / MAI – Masters of Analytical Art. マイー;1925年、レニングラードにおいてフィローノフとその弟子たちによって設立されたグループ。フィローノフ派、フィローノフ・スクールともいわれ、タチヤナ・グレボーヴァ、アリサ・ポレト、パーヴェル・コンドラチェフなど、総数70名ほどが参加した。このグループは公的な委任状を受けたことは一度もなく、1932年には公的命令によって解散させられていたにもかかわらず、フィローノフは自宅に学生を受け入れ続けた。このような行為は芸術アカデミーと秘密警察双方からの注視と反感を誘発することになった。

(*48) コフトゥーン、E.:『フィローノフとそのグループ』(『芸術と革命II展-ロシア・アヴァンギャルドの旋風:1920-30の肖像』図録、西部美術館、ソ連文化省編、1987、p.233-237)。

(*49) Филонов, П. Н. “Декларация «Мирового расцвета»”, Жизнь Искусств. Петорофрад, 1923, №20, .13-15. English translation in Misler and Bowlt, Pavel Filonov: A Hero and His Fate, Austin: Shilvergirl, 1983, p.167. 邦訳、五十殿利治、土肥美夫、他編『ロシア・アヴァンギャルド4 コンストルクツィア-構成主義の展開』国書刊行会、1991、p.287。

(*50) Петров-Bодкин, Кузьма Сергеевич. / Petrov-Vodkin, Kuzma Sergeevich. ペトロフ=ヴォトキン、クジマ・セルゲイヴィチ(1878-1939);ロシア・ソビエトの画家。サラトフ県下に生まれる。モスクワの絵画・彫刻・建築専門学校でセローフ、コロービンのもとで学んだのち、ミュンヘン、パリへ留学。一時、シンボリズムを追究したが、やがてルネサンス初期やロシア・イコンの美的世界にひかれていき、新古典主義的な独自の絵画システムを創始する。明瞭な輪郭、よどみないリズム、流れるような線を特色としており、とくに油彩の大作はフレスコに似ている。彼の作品の特徴として、オレンジ、緑、青の三原色を対比して組み合わせる色彩構成、独自の空間表現として「傾斜遠近法」を用いたことなどが挙げられる。

(*51) Филонов, П. Н. “Декларация «Мирового расцвета»”, Жизнь Искусств. Петорофрад, 1923, №20, .13-15. English translation in Misler and Bowlt, Pavel Filonov: A Hero and His Fate, Austin: Shilvergirl, 1983, p.167. 邦訳、五十殿利治、土肥美夫、他編『ロシア・アヴァンギャルド4 コンストルクツィア-構成主義の展開』国書刊行会、1991、p.287。

(*52) フィローノフは1912年に発表した『規範と法則』で「機械的な原理の故に行き詰まった」と立体主義やピカソを批判した。

(*53) 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波書店、1996、p.154。

(*54) 正規の国家機関たるソヴィエトは形骸化し、共産党が国家機関にとってかわる事態を指す。

(*55) エリオット、デイヴィッド『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992、p.30。

(*56) エリオット、デイヴィッド『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992、p.30。

(*57) エリオット、デイヴィッド『革命とは何であったか ロシアの芸術と社会 1900-1937年』海野弘訳、岩波書店、1992、p.36。

(*58) キーロフ暗殺事件 1934年12月1日、ソ連共産党政治局員兼書記でレニングラード州委員会第一書記のキーロフが、レニングラードの党本部内でニコラーエフという青年に射殺された事件。これは、ジノヴィエフ反対派によるテロ行為であると発表され、すでに政治的影響力を失っていたジノヴィエフ、カーメネフら旧ジノヴィエフ反対派の指導者の逮捕に始まるスターリンの「大粛清」のきっかけとされた。現在、これがでっちあげであることは明らかだとされているが、この事件の背景については不明の点が多い。いずれにせよ、この事件はスターリンの地位をさらに強化したといえる。

(*59) 彼はこの時期一日18時間制作にあてていたようである。

(*60) Глебова, Евдокия Николаевна. / Glebova, Evdokiia.グレボーヴァ、エヴドキヤ・ニコラエヴナ(1888-1980) ;フィローノフ最愛の妹。歌手。何度かフィローノフの作品のモデルになっている。今日のロシア美術館収蔵のフィローノフ作品は、彼女によって戦火から守られ、寄贈されたものである。

(*61) Филонов, П. Н. “Декларация «Мирового расцвета»”, Жизнь Искусств. Петорофрад, 1923, №20, .13-15. English translation in Misler and Bowlt, Pavel Filonov: A Hero and His Fate, Austin: Shilvergirl, 1983, p.167. 邦訳、五十殿利治、土肥美夫、他編『ロシア・アヴァンギャルド4 コンストルクツィア-構成主義の展開』国書刊行会、1991、p.287。

(*62) 亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』岩波書店、1996、p.154。

(*63) Bowlt, John E. “Pavel Filonov: His Painting and His Theory.” -Russian Review, 1975, July, p.283, l.17-p.284, l.4.

(*64) Getzels, J. W. ゲツェルズ、ジェイコブ;アメリカの心理学者。

(*65) 創造的過程の骨組みとして初めて示されたのは、19世紀のドイツ生理学者であるヘルムホルツによる「浸透、発酵、啓示」の三段階であった。その後、20世紀初頭、フランスの数学者ポアンカレーによって最後に「検証」が加えられた。その4段階に、1960年代、ゲツェルズが浸透に先立つ重要な段階として、問題を発見又は明確化する準備段階を加えたもの。この段階はその後、アメリカの心理学者ネラーによって「最初の洞察」と名付けられた。

(*66) コフトゥーン、E.:『フィローノフとそのグループ』(『芸術と革命II展-ロシア・アヴァンギャルドの旋風:1920-30の肖像』図録、西部美術館、ソ連文化省編、1987、p.233-237)。

(*67) コフトゥーン、E.:『フィローノフとそのグループ』(『芸術と革命II展-ロシア・アヴァンギャルドの旋風:1920-30の肖像』図録、西部美術館、ソ連文化省編、1987、p.233-237)。

(*68) ボウルト、J. E. 編著『ロシア・アヴァンギャルド芸術 理論と批評、1902-34年』川端香男里/望月哲男/西中村浩 訳、岩波書店、1988年。

(*69) 大石雅彦:「二重の誕生」-ソヴィエト・アート1920-1930ロシア・アヴァンギャルド作品集;日本語訳・解説編、1989年、アイピーシー、p.5。

(*70) 大石雅彦『マレーヴィチ考 「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて』人文書院、2003年、p.553。どちらかというと、「完成状態」という訳は、「世界的開花」という語に当てはまるだろうと思われる。

(*71) Филонов, П. Н. ” Пир королей. ” 1913, Холст, масло, 175х215. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*72) Филонов, П. Н. ” Трое за столом. ” 1914-15, Холст, масло, 98х101. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*73) Филонов, П. Н. ” Формула петороградского пролетариата. ” 1920-21, Холст, масло, 154х117. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*74) グレーズ glaze, glazing(英)グラシともいい、油彩画で透明な薄い層で塗り重ねる技法。15世紀前半の初期フランドル派の画家たちが手法を確立した。下塗りの色が生乾きになるのを待って、薄く透明に色を重ねる。重ねる回数によって明度は下がるが彩度は高まる。現代のおつゆ描きと呼ばれる透明技法も意味する。

(*75) Филонов, П. Н. ” Цветы мирового расцвета. ” 1915, Холст, масло, 154.5х117. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*76) Филонов, П. Н. ” Белая картина. ” 1919, Холст, масло, 72х89. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*77) スカンブリング scumbling(伊)下塗りの色がとぎれとぎれに見えるように、下塗りの色の上から、不透明な色を薄くかけること。油彩画ではヴェラチューラとも呼ぶ。テンペラなどのハッチングや、乾いた筆で、希釈していない絵の具を軽く引くような手法も含まれる。

(*78) Ершов, Глеб. “Павел Филонов.” Белы город (Москва) , 2001, р.32-33.

(*79) オレッグ・コテーリニコフ氏の夫人は、ペテルブルグ日本人社会のリーダー的存在であるという。今回、私の個展やロシア美術館訪問に際して、何度か通訳をして頂いた。

(*80) Филонов, П. Н. ” Формула весны. ” 1922-23, Холст, масло, 100х99. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*81) Филонов, П. Н. ” Голова. ” 1925, Бмага, масло, 67х48. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*82) Филонов, П. Н. ” Две Головы. ” 1925, Бмага, дублированная на ватман, масло, 58х54. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*83) Филонов, П. Н. ” Козел. ” 1930-е, Бмага, масло, 80х62. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*84) シヒリョーヴァ、オリガ:「フィローノフカタログ作品解説」(ペトローヴァ、エヴゲーニャ/水野忠夫監修『アヴァンギャルドとロシア美術 1900-1930展』図録、JVロシアン・アートプロジェクト、1992年、p.113-114。)

(*85) 1987年にモスクワのプーシキン美術館でシャガール生誕100周年を記念した「マルク・シャガール」展を皮切りに、1988年にペテルブルグのロシア美術館、モスクワのトレチャコフ美術館で「パーヴェル・フィローノフ」展、1888年から1989年にかけて、ロシア美術館、トレチャコフ美術館およびアムステルダム市立美術館にて「カジミール・マレーヴィチ」展、1989年にはトレチャコフ美術館、ロシア美術館にて「ワシリー・カンディンスキー」展が開催された。1991年のソ連崩壊後には1992年から93年にかけて「グレート・ユートピア ロシア・ソヴィエト・アヴァンギャルド 1915-1932」展がフランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館、アムステルダム市立美術館、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、ロシアのトレチャコフ美術館、ロシア美術館と巡回して開催された。

(*86) 一例として、日本文学はロシアにおいて旧ソ連時代から人気が高く、安部公房、芥川龍之介、川端康成などの作品がよく読まれているようだ。また、村上龍や村上春樹、柳美里などの同時代作家も既に書店に並んでいた。

(*87) Герман, М. “Вступительная статья.” Государственный Русский музей представляет “1920-1930 Живопись Государственный Русский Музей.” Советски художник (Москва), 1988, С.6.

(*88) 画家ではアレクサンドル・ディネカ等が挙げられる。映画監督のエイゼンシュテインは、フィローノフと同じく、弁証法的唯物論から映画理論を導き出したが、その代表作『戦艦ポチョムキン』等が革命を賛美しているかのように受け取れるため、現在のロシアでは評価は地に落ちている。

(*89) Филонов, П. Н. “Колхозник.” 1931, Холст, масло, 69.5х53. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*90) Филонов, П. Н. “Ударницы на фабрике «Красная заря».” 1931, Бумага на фанере, масло, 66х91.5. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*91) Филонов, П. Н. “Тракторный цех Путиловского завода.” 1931, Холст на фанере, масло, 71х96. Государственный Русский музей, Санкт-Петербург.

(*92) 職業として画家である以上、依頼された作品を「引き受ける」こと自体、問題がある行為ではない。第一に、自分にとって魅力的ではない対象やテーマを描くことが、画家にとっての妥協であるとするなら、創作活動は大きく制限されてしまう。第二に、たとえ魅力のない対象であっても、美術に対する真摯な姿勢で臨めば、よい作品を創ることは可能である。我々が画学生時代、先生から与えられたモチーフやモデル、構成課題などが、果たして自分にとって魅力的なものばかりであったかどうかを思い起こせば理解できる。

(*93) イワン雷帝 ИВАН ГРОЗНЫЙ / Ivan the Terrible 第1部;中央連合撮影所、1944年製作、第2部;モスフイルム、1945年製作。

(*94) コフトゥーン、E.:『フィローノフとそのグループ』(『芸術と革命II展-ロシア・アヴァンギャルドの旋風:1920-30の肖像』図録、西部美術館、ソ連文化省編、1987、p.233-237)。

(武蔵野美術学園)

 

美術教育研究、第9号/2003 美術教育研究会(東京藝術大学)

Article  Study on “Pavel Nikolaevich Filonov “: An Analysis of His Paintings ( Abstract )

Study on “Pavel Nikolaevich Filonov “: An Analysis of His Paintings ( Abstract )

 

Toshiaki SHIBATA

 

  During May 15, 2002 to June 3, 2002, I was invited by an artist, Oleg Kotlnikov of Saint-Petersburg, Russian Federation, to hold an exhibition of my work at the art gallery “Navicula Artis” in Saint Petersburg. At that occasion, by the courtesy of Kotlnikov and the State Russian Museum, I was especially able to view the works of Pavel Nikolaevich Filonov (1883-1941), one of the essential artists of the Russian Avant-garde, that were collected by the Russian museum.

 

  In 1994, at Tokyo National University of Fine Arts and Music Graduate School, I conducted a study on Filonov’s painting theory as my master’s thesis. At the time, I analyzed mainly manifestos that Filonov had left. Regarding Filonov’s painting theory: “Analytical Art”, I first elucidated the problems in the preceding Filonov research by John E. Bowlt, then I analyzed Filonov’s four main manifestos, revealing the main concept of Filonov’s “Analytical Art” as well as verifying that Filonov’s philosophical basis was dialectal materialism. Also, in the analysis of Filonov’s works, I looked into how the main concept shown in the manifestos were actually expressed in the works. However, what could be read from the analysis of material such as pictorial records was insufficient. In the preceding researches, there were some parts referring to the production, but from a painter’s point of view, there were some points that prompted questions. In this study, in order to give a clear answer to those questions, as a painter, I try to analyze how Filonov’s works were produced, with a painter’s particular view.

 

  One of the strongest characteristics shown in Filonov’s paintings is high quality of creation. From his early works to his last works, he always used an applied classical painting technique and composed the picture with utmost planning. In this study, Filonov’s “Analytical Art” is first examined considering the relationship to Russian-Soviet fine arts and society. Nine of Filonov’s most important works are then taken up in chronological order and the analysis focuses predominantly on techniques that can be assumed from the texture. The changes of his paintings, the originality of his expression, and the connection with the painting theory shown in his manifestos are also analyzed. The valuable views on his paintings obtained from the Saint-Petersburg art sector are added and examined.

 

Issues and Researches in Art Education No.9 / 2003


Society for Art Education Studies ( Tokyo National University of Arts and Music )

search for the madeness -造形性の追究-(展示発表要旨)

search for the madeness

-造形性の追究-

(展示発表要旨)

 

柴田 俊明

 

 私はこれまで、コンテンポラリー=同時代性を追究するのではなく、絵画の普遍性とは何かということを模索して来ました。

 

 それは、平面における多次元性の表現=時間的・空間的経過を同一平面上に表現することであったり、 色彩と形態をコンフリクトさせることで生まれる新たな視覚的イメージであったり、最近の造形性追究型絵画にいたるまで、様々な表現の変遷がありました。いずれも、矛盾する二つ以上の要素を同時に成立させることをコンセプトとしており、多様な価値観を認めながらも、自己をアピールしていかなくてはならないという 、 表現活動と社会のあり方そのものを表出する結果となってきました。

 

 20世紀初頭のモダニズム運動は、アカデミックなリアリズム美術の「文学性」をはねのけることから始まったと言われます。しかし、今日の美術状況を考える時、コンテンポラリー・アート、特にコンセプチュアル・アートは、「初めに言葉ありき」という点において、その文学性の高さにおいて、19世紀以前に戻ってしまった感があるように思えます。このことは、昨年の5月にロシアを訪れた際に、意外な発見をしたことで、さらに確信を持つようになりました。その発見とは、コンテンポラリー・アートと社会主義リアリズムは、「内容」を重視するあまり、「形式」を排除しているという点で非常に似ているということです。 私は、この「文学的」美術に対し、「造形性」を追究することを第一に考えた20世紀初頭のモダニズム運動を、そのような意味において評価したいと思います。

 

 私は社会や大衆に特定のメッセージを与えうるものこそが芸術だとは思っていません。私にとって、絵画とは、造形とは、デッサンであり、構図であり、構成であり、色彩であり、形態であり、素材であり、技法であります。あらゆる意味で、造形性の追究こそが美術本来の芸術性を真の意味で高めるものであると信じています。

 

 

(※この文章は、2002年11月に東京芸術大学で開催された美術教育研究会第8回研究大会・展示発表の要旨の改定版であり、2003年2月 ギャラリー坂角における企画展示においてあらためて発表された。)

口頭発表『報告「フィローノフへのオマージュ/ サンクト・ペテルブルグにおける 個展とフィローノフ 探訪」(発表要旨)』

報告「フィローノフへのオマージュ/ サンクト・ペテルブルグにおける 個展とフィローノフ 探訪」(要旨)

 

柴田 俊明

 

 私は2002年5月15日より6月3日迄の間、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市(*1)の画家、オレッグ・コテーリニコフ(*2)氏の招きにより、サンクト・ペテルブルグの画廊、ナビキュラ・アルティス(*3)において個展を開催する機会を得た。その際、コテーリニコフ氏及び国立ロシア美術館の厚意によって、ロシア美術館に収蔵されている、ロシア・アヴァンギャルドの重要な作家のひとりであるパーヴェル・ニコラエヴィチ・フィローノフ(1883-1941)(*4)作品を特別に観覧することが出来た(*5)。

 

 1994年、東京芸術大学大学院において修士論文としてフィローノフの絵画理論研究を行った。そこでは、主にフィローノフが残したマニフェスト(*6)を分析することを中心に研究を進めた。フィローノフ絵画理論である「分析的芸術」に関して、先行研究のボウルト(*7)によるフィローノフ研究の問題点を解明することから始まり、フィローノフの主要なマニフェスト4篇を分析、彼の「分析的芸術」の主要概念を明らかにすると共に、その哲学的基盤を立証することが中心となった。作品分析もおこなったものの、資料からの分析にとどまり、実際の作品を観て分析することが出来なかったことが研究の不十分さに繋がった。今回の訪露でフィローノフ作品を観ることが出来たことで、作家の立場でフィローノフの作品と理論を明らかにするという、本研究の目的を深めることが出来たと思う。

 

 かつて旧ソ連では、フィローノフは勿論、ロシア・アヴァンギャルドそのものが、正当な評価を受けていなかった。しかし今日では、ロシア美術館を中心に、フィローノフ始めロシア・アヴァンギャルドの研究が急速に行われているようだ。特にフィローノフにおける評価は、非常に高まっているといえよう。ロシア美術館の学芸員、オリガ・シヒリョーヴァ(*8)氏によれば、フィローノフは20世紀ロシア美術の代表的な画家と言えるまでにその名誉回復がなされているようだ。今回、私の個展を開催した画廊、ナビキュラ・アルティスのオーナーの一人、グレッブ・エリショフ(*9)氏もフィローノフ研究者の一人である。

 

 「フィローノフへのオマージュ/柴田俊明展」は、二週間で約700人(*10)の来場者があった。また、現地のテレビ、ラジオ、新聞、雑誌等の取材があり、各種メディアに取り上げられる。このことは日本で考えたら大層なことであるが、ロシア、少なくともペテルブルグでは、美術展がテレビのニュースで紹介されるのは日常であり、子供の頃から美術館に行くことが普通のことになっている(*11)彼らにとっては普通のことのようであった。他にも、IAAカード(*12)の提示で、私は全ての美術館を無料で観覧出来、作品搬送に関しても優遇される等、この国の文化に対する姿勢を体験的に知ることが出来た。

 

 今回の発表では、ロシアでの個展を通して得られたロシアでの美術事情の一端や、ロシア美術館等での取材・調査の成果、特にフィローノフを含めたロシア・アヴァンギャルド作家の作品を画像で紹介すると共に、現時点での考察をお聞きいただければ幸いである。

 

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(*1) Санкт-Петербург. / Saint-Petersburg. サンクト・ペテルブルグ;ロシアでは首都モスクワに次ぐ第二の大都市。1703年にピョートル大帝によって建設される。1712~1918年にはロシアの首都。1914年までサンクト・ペテルブルグ(通称ペテルブルグ)、1914~24年ペトログラード Петорофрад / Petrograd と呼ばれたが、革命家レーニンの死を記念してレニングラード Ленинград / Leningrad と改称。1991年に最初の名称に戻り、現在に至っている。

(*2) Котельников, Олег. / Kotlnikov, Oleg. オレッグ・コテーリニコフ;サンクト・ペテルブルグの画家、詩人。ミュージシャンから転身した。旧ソ連時代末期にいわゆる「ソッツ・アート」の美術家たちの一人に数えられるようになった。現在はペテルブルグ文化人の中でもある意味象徴的存在となっている、かつての反体制芸術家の活動拠点であった、「プーシキンスカヤ10」という建物のメンバーの一人。彼らはロシア政府から、そこに生涯無償で暮らす権利を保障されているという。

(*3) Navicula Artis ナビキュラ・アルティス;かつての反ソ芸術家たちの拠点、「プーシキンスカヤ10」内にある画廊の一つ。美術評論家アンドレイ・クリュカーノフ氏、グレッブ・エリショフ氏が運営している。

(*4) Филонов, П.Н. / Filonov, P.N. パーヴェル・ニコラエヴィチ・フィローノフ;1883年モスクワ生まれ、97年にペテルブルグに移住、活動の拠点とする。1910年頃から頭角をあらわし、13年にはマヤコフスキイの悲劇「ウラジーミル・マヤコフスキイ」の舞台装置を手掛けた。25年には「分析的芸術工房(МАИ/マイー)」を結成。1941年、ドイツ軍包囲のレニングラードで死去。

(*5) 国立ロシア美術館収蔵庫への入室に関して、副館長エヴゲーニャ・ペトローヴァ氏の要請により、学校法人武蔵野美術大学設置校・武蔵野美術学園に公式依頼状を作成して頂いた。

(*6) манифест. / manifesto. 宣言文、声明書。

(*7) Bowlt, John. E. ジョン・E・ボウルト。1943年ロンドン生まれ、バーミンガム大学、セント・アンドルース大学に学び、モスクワ大学留学経験あり。テキサス大学スラヴ言語学科教授となってからも、米ソの文化交流プログラムに従ってしばしば訪ソ、ロシア・旧ソ連の最新の情報・知識の収集を一貫して続けている。テキサス州ブルー・ラグーンの近代ロシア文化研究所の所長として二十世紀ロシア文化の研究・紹介の事業を推し進めている。

(*8) Шихирёва, Олга. / Shikhireva, Olga. オリガ・シヒリョーヴァ;国立ロシア美術館のキュレーター。フィローノフの専門家。

(*9) Ершов, Глеб. / Ershov, Gleb. グレッブ・エリショフ;ペテルブルグの美術評論家、キュレーター。ペテルブルグ国立大学で教える。フィローノフ研究の論文多数。

(*10) 二週間で約700人が訪れたのは、私の12回の個展経験の中では1997年の芸大陳列館に次ぐ入場者数であった。

(*11) エルミタージュ美術館やロシア美術館では、小学生から大学生まで、教員に引率されて観覧する姿を何度も目撃した。また、企画展の初日にはマスコミが取材に訪れるようだ。

(*12) 国際美術連盟(International Association of Art)発行の国際的美術家の身分証明書。

 

2002年11月 東京芸術大学美術教育研究会・第八回研究大会にて口頭発表

《Концепция》(コンセプト)

1.Разновидные элементы и концепции совместить
в одном, чтобы создать многомерность.

 

2.Исследовать изобразительность, как ритм и
гармонию цветов и форм.

 

3.Исследовать изысканную городскую красоту.

 

4.Исследовать авангардное выражение при
помощи академического мастерства.

 

СИБАТА Тосиаки

 

1)複数の異なる概念や要素を同時に扱うことによる多次元性の追究。

 

2)色彩や形態のリズム、ハーモニーといった造形性を追究する。

 

3)ソフィスティケートされた都会的美意識を追究する。

 

4)アカデミックな技術でアヴァンギャルドな表現を追究する。

 

柴田 俊明


(※このテキストは、2002年5月、サンクト・ペテルブルグでの個展の際、会場に掲示されたものです)

 

2002年5月 “Navicula Artis”にて

re-evolutional experiments

 コツコツとした地味な積み重ねの中で、飛躍的な発展を引き起こす諸条件が蓄積されてゆきます。作品は、時と共に発展し、向上し、より高度な質へと変化してゆかなくてはならないのです。展覧会のサブタイトル、“ re-evolutional experiments ”は、自分のための警鐘としての意味を込めた目標を掲げてみました。

 

 ここ数年、ひとつの形態の位相、そして複数の形態の転位をキーワードに制作活動を展開した結果、造形性の追究にウエイトを置いたスタンスになってきました。即ち、色彩や形態のコンストラクションや、より緊張感のあるコンポジション、等を求めるようになったのです。

 

 私は社会や大衆に特定のメッセージを与えうるものこそが芸術だとは思っていません。私にとって、絵画とは、造形とは、デッサンであり、構図であり、構成であり、色彩であり、形態であり、素材であり、技法であります。あらゆる意味で、造形性の追究こそが美術本来の芸術性を真の意味で高めるものであると信じています。

 

 いつの日か、モチーフやモデルが私の絵を真似ているのではないかと思えるほど、対象が色あせてみえるくらい美しい絵を描きたいと思っています。

 

2001年1月

ポスト現代美術 post-contemporary art

■現代美術の終焉

 現代美術が日本の美術の主流になりつつある。というよりも、それ以外は認められない風潮すら感じる訳だが、現代美術を賛美する人達は、美術における普遍性を否定することで、その表現に限界を与えてしまった。このことは現代美術という分野の終焉を意味する決定打となるような気がしてならない。コンセプチュアルアート、インスタレーション、パフォーマンス等、80年代のバブリーな流行も、21世紀にはもはや一過性の時代遅れな概念でしか無くなるだろう。

 

 結局、独りよがりなやり方は、真の造形表現たり得なかったのかもしれない。彼らの多くが「額縁絵画」と批判していた平面の仕事が徐々に「復権」してきているのも皮肉な話である。しかしながら、これらの出来事から我々は多くのことを学んだ。これからの美術、言うなれば「ポスト現代美術」、そして美術家は、如何にあるべきであろうか。

■流行にとらわれない

 いやしくも「美術」であるからには、一過性の流行にとらわれるべきではない。これは何も、流行を否定しているわけではない。作家が制作したものが多くの人々に支持され、それがその時代性にマッチして流行になることは良い。しかし、作家の制作スタイルや作品そのものが、流行によって左右されるとしたらまずいのである。

 

 もっとも、映画や音楽に芸術作品と娯楽作品があるように(このカテゴライズも少し胡散臭いが)、美術のジャンルにも普遍性を考えない大衆的なものがあっても良いと思う。ただし、間違っても美術館に収蔵されることを望んだり、美術家としてペダンティックな振る舞いなどをすることは避けて欲しいものである。

■デッサン力を否定しない

 これも近年の顕著な傾向のひとつだが、技術的に優れていることが悪であるかのようなとらえ方をする美術関係者が多くなった。このような勘違いは、いい加減やめるべきである。「表現技術に優れる」ということが、イコール「優れた作品を制作できる」ということにはならない。しかしながら、優れた表現技術は、幅広い表現活動を約束し、優れた作品の原動力になることは間違いない。勘違いしない方がよいのは、この「優れた表現技術」は機械のように正確なとか、写真のように、とか思われがちだが、そんなことではないということだ。文章の「優れた表現技術」とは何か。言いたいことをもっとも的確な言葉で、もっとも効果的な文章にすることではないだろうか。それは機械には出来ないことである。機械に出来ることは、せいぜい人間の書いた文章のスペルミスをチェックする程度である。

 

 造形芸術の世界における表現技術とは、色彩、形態、構図、構成、といったものが挙げられるが、これらはどれひとつとっても単純に法則化出来るようなものではない。しかし、造形表現とは視覚表現である。視覚表現の諸原理を知ることが、まず必要なことである。その諸原理の中で、最も理解しやすいもののひとつがデッサンである。形態感(構造感)、立体感、質感、といったものを鉛筆、木炭のようなモノクロ素材で、形、明暗、稜線などを手がかりに表すのである。そして、優れたデッサンは、よっぽど写真よりもリアリティがあり、人の目をとらえる力を持っている。

 

 写真やビデオは、新たな表現の材料や用具であるのであって、決してこれまでの美術家のデッサン力の肩代わりをしてくれる機械にはなり得ない。それは、ペンと原稿用紙がワープロやパソコンに代わることがあっても、ワープロやパソコンが魅力的な文章を代わりに書いてくれないのと同じである。

 

 ところで、現代美術の作家たちは、具象絵画の作家を「職人」と言って蔑む傾向があるようだ。丁度、企業の企画や広告のディレクターが、デザイナーのことをそう言うように。確かに、あらゆる意味で、完成度の高い芸術家ほど、職人的な側面があることは確かである。現代美術の作家たちは、いわばお手本をなくした機械みたいなものだ。そのくせ、機械に頼ることを嫌うような発言を(表向きは)するのである。

■インパクト勝負をやめる

 派手や奇抜なものがよく個性的と言われる。しかし、誰もが奇抜なものを描いたら、それは個性的でなくなってしまう。ということは、もともとそれは個性ではなく、奇抜という表現技法なのだ。

 

 それから、今まで見たことも聞いたこともない、新しい表現をを生み出したとき、人は必ずとまどい、一度は驚くかも知れない。しかし、新しい表現も、的確でなくては人に伝わらず、評価されなくなってしまう。そう簡単に新しい表現など生み出せない。

 

 奇抜なことや新しいことが偉いことと勘違いしないようにしよう。インパクト勝負の一発芸人ではなく、確かな表現の出来る芸術家を目指したいものである。

 

 最後に、エゴン・シーレの有名な言葉で締めくくろう。
「現代」美術などというものは存在しない。あるのはただ一つ、芸術であり、それはあらゆる時代を超えて永続する。

 

1999年 7月

口頭発表『絵画作品における視覚イメージの映像化(発表要旨)』

絵画作品における視覚イメージの映像化(発表要旨)

 

柴田 俊明

 

 筆者の絵画作品のイメージを映像で表現するという試みを,映像作家・志村諭佳(*1)氏の協力で制作した。当初は,技術面で志村氏の協力を仰ぎ,筆者個人の作品として制作するつもりであったが,打ち合わせを重ねるうち,彼女のアイデア・イメージも加えてみたくなり,最終的にはコラボレーションの形で制作することとなったものである。

 

 静止画であるタブローやドローイングに動きを与え,その作品イメージを増幅・発展させ得る実写映像や写真などを加工しつつ加えてゆくなど,平面作品を扱いながら,平面作品では出来ない形式,違った切り口での表現を目指した。この制作を通して体験した,様々な問題点や発見についての考察を報告したいと思う。

 

 具体的には,Macintoshを用い,タブローの写真やドローイングはスキャナー入力,ビデオ撮影したものは直接キャプチャー入力(*2)し,それらの素材をAdobe Photoshop, Premiere等のソフトウェアを用いて加工,編集したものである。しかしながら,実際の作業は加工と言うより,コンピュータを使用して描画するという形に近い。ドット単位の修正・加筆は,通常の画材を扱うのと同じ力が必要となる。また,1秒間の動画に15~30フレームの静止画が必要となるため,わずか30秒の映像作品に約450~900枚もの絵が必要となる。どんなジャンルの制作にせよ,モノをつくることは,基本的にはこうした地味で単調な作業の繰り返しが待っているという点で,共通しているように思われる。

 

 コンピュータを使った表現や,映像表現といった,比較的新しい技術を活用した表現は,ともするとその新しさや技術面ばかりが取り上げられやすい上,もし,コンピュータに対する誤った認識(*3)をもったまま取り組むとしたら,造形表現の本質を見失う可能性がある。材料や技術が豊富であれば,表現の幅は広がるのは確かだが,選択肢が多くてもイメージが乏しければどうしようもない。新しい材料や技術が,新しいイメージを生み出してくれる訳ではない。造形表現の基礎である,ものの本質を視る眼や,ヴィジュアルでイメージできる想像力,イメージを組み立てる構成力がなくては,イメージを具体的に思い浮かべて,それを形にすることは難しい。このように,コンピュータを用いた表現を行うことで浮き彫りとなる,造形表現の基礎について,考察してみたい。

 

 この制作で,タッチ,マチエールのみならず,単純な絵の具の重ねであろうとも,下層の色と上に見えている色との差をはっきりと識別できるタブロー作品に比べ,RGBモニターに映る映像は,どの部分にも厚みのない,本物の「平面」である,という当たり前な事実に,新鮮な驚きを覚えた。即ち,絵画は映像ほど「平面」ではなかったのである。このような,映像作品の制作を行ったことにより浮上した絵画の特質を,考察する機会にもなった。

 

 コンピュータは,これまでの手作業をかなり省力化したり,これまでは個人では手の届かなかった分野の表現―例えば映像―を制作できる可能性を与えてくれた。このことが諸刃の刃となり,コンピュータを操作する技術が,あたかもモノを作り出す技術であるかのように誤解する可能性も出てきている。「デジタル・スレイヴ(*4)」と呼ばれる美術・デザイン学校卒業生が近年急速に増加している,という。このような不幸を生まないためにも,コンピュータについての正しい教育が必要なのかも知れない。同時に,コンピュータが普及すればするほど,基礎力が大切になってくるのではないだろうか。

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(*1)志村 諭佳;しむら ゆか(1976- )。多摩美術大学美術学部デザイン科卒。『アップリンク製作デジタル・ムービー企画公募』にて,企画採用が決定し,現在2001年一般公開に向けて映画監督として活動中の新進映像作家。
(*2)Power Macintosh 8500 / 120 のビデオ入出力端子を使用。なお,ビデオテープに出力する際は,Power Macintosh G3 / 400 のFire Wire (IEEE1394) 端子からメディア・コンバータ経由でVHSビデオに出力した。
(*3)コンピュータは万能という神話もまだ生きており,コンピュータさえあれば,すばらしい作品が誰にでもできるように思っている人も多い。
(*4)digital slave ; 志村氏によると,「道具であるコンピュータを操作し,表現するものを形にすることが本来の目的であったはずであるのに,いつの間にか操作する技術にとらわれてしまい,表現するものを見失ってしまったクリエイターたち」のことを指す。アップリンク代表取締役,浅井隆氏から聞いた言葉とのこと。

(発表:1999年11月21日、東京藝術大学美術教育研究会・第5回研究大会にて口頭発表)

1999年 11月

柴田俊明制作ノート(1994年8月-97年2月)

1986-87
この時期の作品は,アクリル樹脂絵の具で下地を施し,テンペラ(卵もしくはカゼイン)で中間層を造り、油彩で仕上げるという手の込んだ作業をしていた.水性地のキャンバスに,主にモデリングペーストで厚く塗られたアクリル下地が強く食いつき,上層の油彩を吸い込む構造になっているため,「乾いた画面」を造ることに成功している.この当時,素材的・技術的にイタリア・ルネサンスの壁画,主にボッティチェルリのフレスコ画に強く惹かれていた.そのため,その乾性の画面を目指していたのである。

1987-88
乾性の画面をより追求して行くために,色彩的には劣る素材ではあるものの,思い切ってアクリル樹脂絵の具に一本化した.アクリル独特の色味を嫌い,なるべく古典的な顔料で製造された絵の具を使用するように心がけた.さらに,生々しい,浮いた色彩を押さえる意味で,チタニウム・ホワイトやジェッソ,モデリングペーストといった白い素材を展色材に顔料を加え,独自の中間色を調合した。

1989-90
作品「ナルシストの憂鬱」シリーズの頃より,ロシアの作家フィローノフの影響があらわれる.独自の中間色による描写は,アクリル絵の具のマイナス点である原色の派手さや中間色の鈍さを克服し,一定の評価を得たが,画面の全体的な弱さという問題点を生み出した.この点を克服するための新たな方法論として用いられたのが「色面分解・統合」による技法である.自分自身の最も好む配色を基準に,その明度差,彩度差,色相差やトーンなどを数値化し,そこから必要な色を基準に配色を決めていくような計算を行って行く.さらに,色面を強く結びつける意味で,カドミウム・レッド・パープルを使用した線描でそれぞれの色面を分割する.色面の境界線が入ることにより,色面の一つ一つの形態が露になるため,いい加減な形態の決め方はできない.これらの色面一つ一つを一単位とした形態が,それぞれ有機的に結びつくように,色彩同士だけではなく,形態の関係性をも思考することになってゆく。

1991-92
色彩と形態のコンフリクトから生み出される新たなイメージ,それがこれまでの「色面分解・統合」の最も優れた点であると考える.しかし,新たな問題点として,二次元的イメージが強くなり,空間性が単調にみえるという欠点があらわれた.また,分解によって密度性は増すが,いわゆるデジタルイメージが強調され,「有機的」な,生き生きとしたイメージ,生命感が損なわれてしまうのである.空間性の克服のために用いた手段として,いわゆる線遠近法的空間表現を用いず,色面性を生かす意味で,大和絵的な空間表現を研究した.「ふたつの自画像と都市」のような,異なる要素の結合,例えば自画像ふたつと俯瞰した都市風景,が生み出す「超」空間性は,作品のコンセプト,内容に対して決定的イメージを与えてしまうため,今後,より入念なエスキース作りが必要となってくる.色彩や形態の工夫といった,描画の段階以前の時間を長くとるようになってゆく.「思考の風景」以降の作品は,制作時間の半分はエスキース造りやアイデアスケッチなどに費やされることとなった。

1993-94
デジタル・イメージの打破のために考えられた方法はふたつある。
まず,分解のみの作業が「自動作用」となってしまうことが,分解と同時に行われるべき統合をおろそかにしてしまっているのである.そこで,前述の色彩の関係性は,それぞれ二つないしは三つの色面を結びつけるに過ぎないわけであるから,全体を強く関係させる糸として用いられるカドミウム・レッド・パープルの線描の入れ方に工夫することが第一点である.この線は,あくまで最初は色面と色面の境界に引かれるものであり,作業性が強かったといえる.その上,色面の形態がうまくいっていないと,そのことを強調してしまいかねない.そこでこの線描は,色面の境界に引かれるという限定をせず,あくまでモチーフやモデルの形態の一部として,「生きた線描」であることを最優先させることとした.このことは,塗り絵的イメージを取り払うことにもなる。
もう一つの方法は,「透層」である.グラッシによって得られる効果のひとつに「全体性の統一感」が挙げられる.それぞれの色みは弱まるものの,有機的結びつきは強まるのである.この方法の欠点である,透層の下の色みが鈍くなることを防止するために,強い色みの必要な部分にヤスリをかけることで,部分的に透層をはがすことを試みた.これは小品には大きな効果があった.しかし,100号位の大作になるとあまりその効果は生まれなかった.それは,あくまで表面的な,細やかな処理であって,大きな色面を生むことはなく,画面上のインパクトをかえって弱めてしまうのである.だが,災い転じて,というか,「裸婦のいる風景( empty eyes )」のようにそれが長所となった作品もあった。

1995-97
ひとつの形態の位相,そして複数の形態の転位.それぞれの形態の重なりが生み出す多重性.より一層の色彩感の充実と,リズム,ハーモニーを追求した作品を求めるようになった。

1994年8月-97年2月
(発表:1997年東京藝術大学博士後期課程研究発表展)

内容と形式(1993年-97年2月)

 よく創作には理屈はいらないと言う人がいる。また、技術的にうまいことがよい作品を生むことと何ら関係ないと言う人もいる。これらはどちらも正しい考えである。しかし、これらを正しく理解していない作家が多い。

 

 よい作品とは理屈抜きによいものである。これこれの理由でどこどこがよい、この表現はなになにを表している、云々は、すぐれた作品だからこそ後になって評論家が言えるのであって、結局理屈などは後からついてくるものなのだ。確かに芸術に理屈はいらない。それは理屈を超えた良さがあるからこそ素晴らしいのだ。しかし、作家がそうであって良いかどうかはまた別の問題だと思う。なぜなら、「理屈で説明できない素晴らしさ」は、「理屈を超えて」いるからであって、決して「理屈以下」ではない。特に若いうちは、無理をしてでも理屈をつけた方がよいのではないかと思っている。作品制作の第一歩とは、まず思考することなのだ。従って「作る」前に「創る」、即ち考えなければならない。若いうちは「理屈で説明できる良さ」を表現できれば大成功と思って良い位なのだと思う。それが出来るようになって初めて「理屈以上」のものを目指せるのではないだろうか。はじめから無理をして、あるいは適当に制作して、「理屈を超えた」作品が出来たとしても、それは単なる偶然に過ぎず、本人も自分の作品の良いところも解らないまま終わってしまう。

 

 技術に関しても同じことが言える。前述の「理屈」を表現する手段として、つまり、頭の中にある概念を具体的に表現するには技術が必要だ。今の日本の美術大学出身者の多くは、ほとんどの者が美大進学予備校、いわゆる研究所で勉強しているためか、非常に高度な技術を習得している。それなのに、その高度な技術を直接制作に役立てられず、良い作品を制作することが出来ないことは、往々にして存在する。確かに、受験に必要な技術と、自己の創作に必要な技術が必ずしも結びつくとは限らない。しかし、多くの失敗の原因は、その高度な技術レベルに見合うだけの本人の精神性に伴う人格の成長がないという点にあるのであって、技術そのものに問題があるのではないはずだ。技術的修練は、精神的成長と平行する形で行う必要があるのだと思う。

 

 まず、表現したい内容(コンセプトと呼んでも良いだろう)がなければならない。そして、それを具体化するための形式として技術・技法が存在する。それらが有機的に機能した上で初めて表現となりうるのである。内容は形式の中にあり、形式は内容の中にある。このふたつ、これらのどちらが欠けてもならないし、また両方がうまくかみ合わなければならない。即ち内容と形式は不可分にして一体であり、その作品の基本的ヴィジョンを決定づける。基本的な部分で何のヴィジョンももたない制作は、何ももたらさない。

 

 ここで、良い作品を生み出せない作家のタイプを分類してみよう。

1. 似非芸術家タイプ
 内容も形式も存在しない、一番困る作家。技術がないことを見破られたくないから、訳の分からないことをして、一般人を騙している詐欺師。自分でも意味の分からないことをしているわけであるから、コンセプトも後から適当に考える。始末の悪いことに、言葉の知識だけは豊富な者が多く、口八丁でもっともらしい解説をする。ある意味では、これを一つの形式として考えることもできるが、これはいわゆる「形式主義」の最も悪い形態であると言えよう。こういう作家の存在が、「美術=理解できない物」という公式を生み出している。

2. アルチザンタイプ
 コンセプト不在。そんな物はいらないとすら思っている作家。見たままを描き、「美しいと感じた心を素直に表現することが最も大切なことである」というのが口癖である。しかし現実には制作は作業であり、手業であるため、表現にはなっていない場合が多い。

3. 技術先行タイプ
 コンセプトが曖昧。内容がはっきりしないから、技術があっても表現にならない。内容が必要なことは感じているものの、知識と経験不足。

4. 概念先行タイプ
 内容がいかに優れていようとも、形式を軽視すると独りよがりで理解してもらえない。コンセプトだけか、技術をあえて出そうとしないのか。また、独創的な(自分勝手な)形式を追い求めることに終始するタイプもいる。現代美術系作家に多く見られる。

5. 接触不良タイプ
 表現したい内容もあるし、技術的にレベルが低いわけではないが、うまくかみ合っていない(結果、下手といわれても仕方がないが)。今一歩。

 造形における形式は、内容を翻訳する手段である。

 

1993年-97年2月

論文『パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説(要旨)』

パーヴェル・フィローノフ絵画理論研究序説

― 分析的芸術論と作品にみられる彼の世界観に関する一考察 ―

(Abstract_要旨)

柴田 俊明

 パーヴェル・ニコラエヴィチ・フィローノフ(1883-1941)は、ロシア・アヴァンギャルドの重要な作家のひとりであるにもかかわらず、世界的にその知名度は低い。わが国でもここ近年、ロシア・アヴァンギャルドに対して関心が深まりつつあるにもかかわらず、その中で彼をとりあげる研究者も皆無である。その大きな理由として、旧ソ連におけるフィローノフとその作品に対する無知と無視が存在する。それには様々な原因が挙げられるけれども、何よりも1934年の社会主義リアリズム路線の採択にみられるような、ソヴェートの間違った文化政策によるところが大きいと思われる。

 フィローノフはその絵画作品だけでなく、その理論を文章化したものである多くのマニフェスト(*1)を残した。フィローノフに限らず、作家の言葉は過去に多く残されているし、研究もされてきた。しかしフィローノフのマニフェストは理論と呼ぶにふさわしいものである。フィローノフはレオナルド以来の、絵画を学問として追究し、その普遍的内容に行き着いた希有の存在であると思われる。彼の創作理論の中には、あらゆる時代のあらゆる創造的な仕事にたずさわる人間に共通する、ひとつの真理をみつけることができる。本研究では、筆者自身、創作にたずさわる者のひとりとして、すなわち作家の立場からフィローノフの作品と理論を明らかにしたい。また、このような視点での研究こそ重要な意義をもつことであると考える。

 フィローノフに関する先行研究については、ロシア・アヴァンギャルドの復権と世界的認知に貢献したひとりであるジョン・E・ボウルトによってなされたものが最も重要なものであろう。ボウルトは、ニコレッタ・ミスレルと共著の形で、その研究を”Hero and His Fate(*2)”にまとめている。そこではフィローノフという未知の作家を世界的に紹介、評価しており、フィローノフの理論的業績であるマニフェストの数々の英訳を掲載している。本研究の資料としたマニフェストもここから翻訳したもので、テキストは基本的にはボウルトの英訳に従った。

 しかし、ボウルトのフィローノフに関する研究は、内容的にみてフィローノフのロシア・アヴァンギャルドにおける位置づけから、その個々の作品論に至るまで、作家的視点からの評価に欠けたものであり、同時にフィローノフのマニフェストにみられる絵画理論の普遍的重要性に気づいていない。

 一口にフィローノフの研究といっても、その内容は極めて多岐にわたり、その全てについて論ずることはわずかな期間では到底不可能である。そこで本研究では、フィローノフ・分析的芸術理論に欠くことのできない重要なマニフェスト、「つくられた絵画(*3)」、「『世界的開花』宣言(*4)」、「分析的芸術の基礎原理(*5)」の三篇および、分析的芸術理論の要約である「分析的芸術のイデオロギー(*6)」をとりあげ、論ずることとした。

 フィローノフのマニフェストの論拠となっているものは何か。結論から言えば、それは弁証法的唯物論である。多くのロシア・アヴァンギャルドの作家達が、当時のロシア革命に影響を受けていたように、フィローノフもそうであったようだ。しかし、ここで言っておかねばならないのは、弁証法的唯物論を芸術の領域に持ち込んで成功している作家は他には余り例をみないということだ。なぜなら、芸術家に限らず、多くの知識人の間で、弁証法的唯物論は正しく理解されていないからである。ボウルトは、フィローノフには芸術以外の教育がなかったと断定しているけれども、仮に独学であったにせよ、筆者はフィローノフの弁証法的唯物論の習得は明らかであると考える。フィローノフは作家としての活動を通して、世界観としての弁証法的唯物論の方法と具体性と真理性を―芸術の領域で ― 実践的に示しているのである。

 本研究では、第一章でフィローノフの理論的業績であるマニフェストを分析、検証し、そこで、彼がたびたび繰り返している「つくりもの性」、「世界的開花」、「多次元的絵画」、「直観的分析」といった分析的芸術の主要概念を明らかにした。同時に、その「分析的芸術」の哲学的基盤が、弁証法的唯物論にあるということを立証した。第二章ではマニフェストで示された主要概念を彼の実際の作品の中でどのように表れているか、筆者自身の制作と体験を関連させながら考察することにした。筆者の個人的体験や見解を表に出していくことには批判もあろうと思われる。しかし、芸術における創作行為という、ある意味では極めて個人的な営みを考察する場合、研究者の制作者としての視点を露にすることによって、問題の本質が浮かび上がってくるのではないかと考えている。そして、第三章では、美術教育を美術と社会との接点に生まれるものと考える立場から、自らマニフェストを社会に向けて発表するという姿勢そのものについてや、マニフェストを美術教育的に考察すると共に、そのマニフェストを実際に教育に用いたことなど、フィローノフの教育活動の重要性とその実践における限界を明らかにし、フィローノフの作家活動の社会との関連を考察した。

 しかし、今回の研究において明らかになったことは僅かである。まだまだ検討すべき資料を手元に残したままこの論文を終えなければならないのは残念である。しかし、この論文を第一歩として、引き続きこの研究を継続してゆきたいと考えている。特に、美術教育をテーマにしたマニフェストの分析については次の機会に明らかにしたい。

目次


序論
1・本研究の問題意識と目的
2・先行研究について
3・問題の所在
4・研究の方法論

第一章 マニフェストの分析
第一節 マニフェスト「つくられた絵画(1914)」について
・「つくりもの性」の理念
・ロシア芸術と「つくりもの性」
・ドローイングの復権
・作家宣言
第二節 マニフェスト「『世界的開花』宣言(1923)」について
・立体主義批判
・「ふたつの述語」と「無数の述語」
・ロシア芸術の独自性とその「衒学化」
・世界的開花と自然主義
第三節 マニフェスト「分析的芸術の基礎原理(1923?)」について
・直観と知性
・内容と形式
・リアリストの形態の意義
・分析的な自然主義の基本原理
・分析的緊張と極限の忍耐力
第四節 マニフェスト「分析的芸術のイデオロギー(1930)」および総合的考察
・「原子論的」構造と「完全性の原理」
・フィローノフの造語が示す弁証法的唯物論

第二章 作品分析―マニフェストと作品の関係
・男と女(1912-13)
・ペトログラード・プロレタリアートの公式(1920-21)

第三章 フィローノフの作家活動と社会との関連―美術教育的考察
第一節 美術教育的視点からみたマニフェスト
第二節 フィローノフの教育論と「分析的芸術の作家集団(フィローノフ学校)」

結論
・弁証法的唯物論と分析的芸術

 

附録資料 (各マニフェスト邦訳)
・つくられた絵画
・「世界的開花」宣言
・分析的芸術の基礎原理
・分析的芸術のイデオロギー

 

文献目録

人名索引

図版資料

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(*1) манифест, manifesto. 宣言文、声明書。
(*2) Misler, N. and Bowlt, J. E. “Pavel Filonov: A Hero and His Fate” Austin, Texas, 1984.
(*3) ”Сделанные картины”, St. Petersburg: Intimate Studio of Painters and Draftsman, 1914.
(*4) ”Декларация《Мирового расцвета》”, in Zhizn iskusstva, Petrograd, 1923, No.20, pp.13-15.
(*5) ”Основных положений аналитического 
искусства”, 1923?, the manuscript of which is in TsGALI, f.2348, op.1, ed. khr.10.
(*6) ”Идеология аналитического искусства” Каталог 
Русского Музея,1930, pp.41-42.

(発表:「平成5年度修士論文要旨」東京芸術大学大学院美術研究科、1994年、p.6-7.)

1994年1月