1997.02.10内容と形式(1993年-97年2月)

 よく創作には理屈はいらないと言う人がいる。また、技術的にうまいことがよい作品を生むことと何ら関係ないと言う人もいる。これらはどちらも正しい考えである。しかし、これらを正しく理解していない作家が多い。

 

 よい作品とは理屈抜きによいものである。これこれの理由でどこどこがよい、この表現はなになにを表している、云々は、すぐれた作品だからこそ後になって評論家が言えるのであって、結局理屈などは後からついてくるものなのだ。確かに芸術に理屈はいらない。それは理屈を超えた良さがあるからこそ素晴らしいのだ。しかし、作家がそうであって良いかどうかはまた別の問題だと思う。なぜなら、「理屈で説明できない素晴らしさ」は、「理屈を超えて」いるからであって、決して「理屈以下」ではない。特に若いうちは、無理をしてでも理屈をつけた方がよいのではないかと思っている。作品制作の第一歩とは、まず思考することなのだ。従って「作る」前に「創る」、即ち考えなければならない。若いうちは「理屈で説明できる良さ」を表現できれば大成功と思って良い位なのだと思う。それが出来るようになって初めて「理屈以上」のものを目指せるのではないだろうか。はじめから無理をして、あるいは適当に制作して、「理屈を超えた」作品が出来たとしても、それは単なる偶然に過ぎず、本人も自分の作品の良いところも解らないまま終わってしまう。

 

 技術に関しても同じことが言える。前述の「理屈」を表現する手段として、つまり、頭の中にある概念を具体的に表現するには技術が必要だ。今の日本の美術大学出身者の多くは、ほとんどの者が美大進学予備校、いわゆる研究所で勉強しているためか、非常に高度な技術を習得している。それなのに、その高度な技術を直接制作に役立てられず、良い作品を制作することが出来ないことは、往々にして存在する。確かに、受験に必要な技術と、自己の創作に必要な技術が必ずしも結びつくとは限らない。しかし、多くの失敗の原因は、その高度な技術レベルに見合うだけの本人の精神性に伴う人格の成長がないという点にあるのであって、技術そのものに問題があるのではないはずだ。技術的修練は、精神的成長と平行する形で行う必要があるのだと思う。

 

 まず、表現したい内容(コンセプトと呼んでも良いだろう)がなければならない。そして、それを具体化するための形式として技術・技法が存在する。それらが有機的に機能した上で初めて表現となりうるのである。内容は形式の中にあり、形式は内容の中にある。このふたつ、これらのどちらが欠けてもならないし、また両方がうまくかみ合わなければならない。即ち内容と形式は不可分にして一体であり、その作品の基本的ヴィジョンを決定づける。基本的な部分で何のヴィジョンももたない制作は、何ももたらさない。

 

 ここで、良い作品を生み出せない作家のタイプを分類してみよう。

1. 似非芸術家タイプ
 内容も形式も存在しない、一番困る作家。技術がないことを見破られたくないから、訳の分からないことをして、一般人を騙している詐欺師。自分でも意味の分からないことをしているわけであるから、コンセプトも後から適当に考える。始末の悪いことに、言葉の知識だけは豊富な者が多く、口八丁でもっともらしい解説をする。ある意味では、これを一つの形式として考えることもできるが、これはいわゆる「形式主義」の最も悪い形態であると言えよう。こういう作家の存在が、「美術=理解できない物」という公式を生み出している。

2. アルチザンタイプ
 コンセプト不在。そんな物はいらないとすら思っている作家。見たままを描き、「美しいと感じた心を素直に表現することが最も大切なことである」というのが口癖である。しかし現実には制作は作業であり、手業であるため、表現にはなっていない場合が多い。

3. 技術先行タイプ
 コンセプトが曖昧。内容がはっきりしないから、技術があっても表現にならない。内容が必要なことは感じているものの、知識と経験不足。

4. 概念先行タイプ
 内容がいかに優れていようとも、形式を軽視すると独りよがりで理解してもらえない。コンセプトだけか、技術をあえて出そうとしないのか。また、独創的な(自分勝手な)形式を追い求めることに終始するタイプもいる。現代美術系作家に多く見られる。

5. 接触不良タイプ
 表現したい内容もあるし、技術的にレベルが低いわけではないが、うまくかみ合っていない(結果、下手といわれても仕方がないが)。今一歩。

 造形における形式は、内容を翻訳する手段である。

 

1993年-97年2月

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