2003.02.01search for the madeness -造形性の追究-(展示発表要旨)

search for the madeness

-造形性の追究-

(展示発表要旨)

 

柴田 俊明

 

 私はこれまで、コンテンポラリー=同時代性を追究するのではなく、絵画の普遍性とは何かということを模索して来ました。

 

 それは、平面における多次元性の表現=時間的・空間的経過を同一平面上に表現することであったり、 色彩と形態をコンフリクトさせることで生まれる新たな視覚的イメージであったり、最近の造形性追究型絵画にいたるまで、様々な表現の変遷がありました。いずれも、矛盾する二つ以上の要素を同時に成立させることをコンセプトとしており、多様な価値観を認めながらも、自己をアピールしていかなくてはならないという 、 表現活動と社会のあり方そのものを表出する結果となってきました。

 

 20世紀初頭のモダニズム運動は、アカデミックなリアリズム美術の「文学性」をはねのけることから始まったと言われます。しかし、今日の美術状況を考える時、コンテンポラリー・アート、特にコンセプチュアル・アートは、「初めに言葉ありき」という点において、その文学性の高さにおいて、19世紀以前に戻ってしまった感があるように思えます。このことは、昨年の5月にロシアを訪れた際に、意外な発見をしたことで、さらに確信を持つようになりました。その発見とは、コンテンポラリー・アートと社会主義リアリズムは、「内容」を重視するあまり、「形式」を排除しているという点で非常に似ているということです。 私は、この「文学的」美術に対し、「造形性」を追究することを第一に考えた20世紀初頭のモダニズム運動を、そのような意味において評価したいと思います。

 

 私は社会や大衆に特定のメッセージを与えうるものこそが芸術だとは思っていません。私にとって、絵画とは、造形とは、デッサンであり、構図であり、構成であり、色彩であり、形態であり、素材であり、技法であります。あらゆる意味で、造形性の追究こそが美術本来の芸術性を真の意味で高めるものであると信じています。

 

 

(※この文章は、2002年11月に東京芸術大学で開催された美術教育研究会第8回研究大会・展示発表の要旨の改定版であり、2003年2月 ギャラリー坂角における企画展示においてあらためて発表された。)

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